百年文庫(44)
第44巻は「汝」(吉屋信子「もう一人の私」 山本有三「チョコレート」 石川達三「自由詩人」)
<ドアが開いて現れたのは「わたくし」にそっくりな娘だった…。亡き双子の姉との不可思議な交流を描いた「もう一人の私」。裕福な家庭に育った彼は父の口利きで一流会社に就職が決まりかけたが…。青年の潔癖さと世間との埋まらない距離を描いた「チョコレート」。
「詩人」はぶらりとやってきては「私」の煙草を吸い、借金を申し込み、酒を飲んで帰って行く。生活は破綻しつつも純粋な心を持ち続けた男の生涯を描いた「自由詩人」。
心を照らす他者の存在と、我と汝の物語>
「もう一人の私」は、産まれてすぐ死んでしまった双子の姉を映画館の地下にあるトイレで初めて見て衝撃を受けた「わたくし」が、再び姉を見たのは結婚式後の初夜を迎えるホテルの部屋のベランダだった。去って行く姉を必死で追っていくが…。本作は、生き残った者の贖罪意識にスポットをあてた物語だ。
「チョコレート」は、裕福な家庭に育った青年の就職にまつわる物語。若者特有の潔癖さなど、実社会には何の影響も与えないという結末が哀しい。
「自由詩人」は、自由奔放に生きる「詩人」を友人に持った「私」が、その詩人に振り回される様を描いた物語。彼の生活ぶりは、「私」からみると、
「結局この詩人は、自由でもなく我儘でもなく好き勝手をしているのでもなく、いまでは自分の我儘や自由に追い詰められて、どうにもならない行き詰まりの道に追い込まれて、息苦しさに喘いでいるのではないだろうか。妻を憎み妻と争うのも、本当は妻が相手ではなくて、妻の姿をした山名(詩人の苗字)自身と闘っているのではなかったろうか」
「彼らの夫婦生活の行き詰まりは、とりも直さず詩人山名英之介の行き詰まりであったに違いない」。
行き詰まりの果てに、悲惨な結末が用意されているのだが、こういうどろどろとした人間模様は、なぜか他人事と思えない。一歩踏み違えば、自分の人生でもあったと思うせいかもしれない。
<著者略歴
吉屋信子 よしや・のぶこ 1896-1973
新潟県生まれ。10代のころから雑誌に投稿するようになり、1916年から「少女画報」に連載した『花物語』が好評を博し、ロングセラーとなった。52年に『鬼火』で女流文学者賞を受賞。他の作品に『あの道この道』『女人平家』など。
山本有三 やまもと・ゆうぞう 1887-1974
栃木県生まれ。本名は勇造。東大在学中に第三次「新思潮」の創刊に参加。社会劇で新進劇作家として名を上げる。文芸家協会の設立にも尽力し、『真実一路』『路傍の石』など、人道主義に根差した小説で多くの読者を獲得した。
石川達三 いしかわ・たつぞう 1905-1985
秋田県生まれ。早稲田大学を1年で退学した後、1930年、移民船でブラジルに渡り半年で帰国。その体験をもとにした『蒼氓』で第1回芥川賞を受賞。戦後は主に社会派作家として活躍した。代表作に『風にそよぐ葦』『青春の蹉跌』など。