百年文庫(38)
第38巻は「日」(尾崎一雄「華燭の日」「痩せた雄鷄」 高見順「草のいのちを」 ラム・山内豊雄訳「年金生活者」「古陶器」)
<「こうして床を並べて眠るのも今夜限りだ」。娘の結婚式を控えた父親の真情が胸にしみる「華燭の日」。戦後の苦しい時代、酒宴の席で怪しげな人生談義が始まった。語り合ううちに哀感の底から湧いてきた新しい希望を描いた「草のいのちを」。気苦労ばかりの勤め人として幾星霜、ついに定年の日を迎えた「私」。解き放たれた「自由な時間」を前に会社への訣別と感慨を綴った「年金生活者」。名もなき日々が美しい、愛とユーモアの一冊>
「華燭の日」「痩せた雄鷄」は、家族への溢れる愛が詰まった作品。「私小説」ってこんなにほのぼのとした味わいのあるものだということがよく分かる。貧しさの中でも明るく振る舞う妻と、貧しさゆえに何もしてやれなかった娘への愛おしさが伝わってくる。こういう「私小説」がいつのまにかみかけなくなったのが、寂しい。
「草のいのち」は、生きることの大切さを教えてくれる。ラスト、生きる気力もなく、ただ荒れる友人の弟に、「私」が書いた詩を暗誦する場面が心にしみる。
<――己の生を、いのちを否定する内瀬の弟に、私はこれを聞かせて彼のうちに生きんとする力を取り戻させたいといった気持より、私自身を私の詩で力づけたいのであった。
私の声は震えた。そうして眼に涙が溢れてきた。みんな、――内瀬の弟も内瀬も、細君の妹も細君も、下らん歌をうたっている下の男女も、そうして私も、――みんな、なんだか、なんともいえず可哀想であった。そうしてこの哀感の底から、力と愛が湧いてくる。私は狂人のように歌いつづけた。>
「年金生活者」「古陶器」の作者チャールズ・ラム(1775~1834年)はイギリスのロンドン生まれ。ニ十歳のときから定年まで勤め上げ、それと並行して文筆活動をした。「年金生活者」では、リタイアすることになった男の解放感と寂しさを、「古陶器」では、何でもすぐ手に入る生活をするようになった今、かつての「少し貧しい」境遇での、欲しいものを手に入れるための我慢がどれほど楽しかったかを回顧する従姉を描いている。両作とも望んでやっと手にしたものが、どれほど「寂しい」ものかを語っている。「お金で幸福は買えない」という神話が生きていた時代ならではの作品のような気がしないでもない。
<著者略歴
尾崎一雄 おざき・かずお 1899-1983
三重県生まれ。志賀直哉に師事し、1937年に『暢気眼鏡』で芥川賞受賞。戦後を代表する私小説作家のひとりで、78年に文化勲章受章。他の作品に『虫のいろいろ』『まぼろしの記』など。
高見 順 たかみ・じゅん 1907-1965
福井県生まれ。プロレタリア文学から出発し、後に転向。1935年の『故旧忘れ得べき』で、小説家としての地位を確立した。代表作に『如何なる星の下に』『いやな感じ』など。詩人としても優れた作品を残している。
ラム Charles Lamb 1775-1834
イギリスの随筆家。東インド会社に33年間勤務し、姉・メアリーを介護しながら文筆活動を行う。「エリア」の筆名で発表した随筆は、イギリス随筆文学の最高峰といわれる。代表作に『シェークスピア物語』など。