「誘拐児」と「シャイロックの子供たち」
「誘拐児」(翔田寛)は、戦後誰もが明日の食にも困る時代に起きた誘拐事件を背景にかつての松竹映画、「三回泣けます母子モノ」を思わせる母子愛が描かれている。この小説のテーマもやはり家族愛だ。ただ、登場人物と一緒に推理していくストーリーは読んで飽きさせない。エンタメ系の小説では、この江戸川乱歩賞受賞作は粒ぞろいだ。
<終戦翌年の昭和21年夏、実業家の子息で、5歳になる男の子が東京・成城の自宅前から誘拐された。やがて、犯人から脅迫状が届く。「使い古しの新圓で百萬圓を 用意しろ。場所は有樂町カストリ横丁」。警察は犯人逮捕に全力をあげ、屈強な刑事たちが闇市を張り込むが、誘拐犯はその目前で身代金を奪ったうえ、子どもを連れて逃げてしまった。あれから15年、手がかりは何もなく、迷宮入りしたかに見えた。しかし、とある殺人事件をきっかけに、再び児童誘拐事件が動き出した!>
「シャイロックの子供たち」(池井戸潤)。読み始めたらどうも一度読んでいるような気がしたが、大筋は覚えていても細部はほとんど忘れていた。いつものことながら、この人の小説は身につまされる。サラリーマンの悲哀というか理不尽さに耐える姿は現役時代の自分と重なって他人事と思えない。「我慢を覚える」、好きな言葉だったが一種の逃げだったかもしれない。
<「貸す」と「借りる」の間には様々な関係が存在する。そこには越えてはならない一線があるのだが、ときとして銀行員はそれを越える。このとき銀行員は銀行員でなくなり、ただの金貸しになる。金貸しは金のために人生を賭し、組織の論理より人生の論理を優先させる。ときにそれが暴走し、銀行という組織を軋ませる事件へと発展するのだ。
そんな金貸しと化したひとりの銀行員が、『シャイロックの子供たち』の舞台となる東京第一銀行長原支店にいる。果たして彼がどうなるのか、金貸しの末路をその目で確かめて欲しい。(池井戸潤)>