喪失記
昨日聴いたCDは、「ジ・アメイジング・バド・パウエルvol.1」。確か、このアルバムを録音した時期(1949~51年)、パウエルはドラッグ中毒が嵩じて精神障害に冒され入退院を繰り返していたのではなかった。
<より「わかりやすく」するために通常のピアノ・トリオにトランペットにファッツ・ナヴァロ、十九歳の新人テナーサックス奏者ソニー・ロリンズを加え、「バド・パウエル・モダニスツ」と命名したところにライオンの不安と商才が交錯する。
クインテット編成で四曲をレコーディングした時点でパウエルの本質はピアノ・トリオにありと見抜いたライオンは、二人のホーン走者をかえし、以後の二曲をピアノ、ベース、ドラムスで演奏することを提案する。(「超ブルーノート入門」 中山康樹)>
「チュニジアの夜」、最初に聴いたのがディジー・ガレスピー、そしてクリフォード・ブラウンの魂をゆさぶる熱演が印象に残っていたせいで、ピアノトリオの演奏で聴くと気の抜けたコーラのようで物足りなかった。だが、二度、三度と聴き直してみると、じんわりと良さが広がってくる。何事も先入観(思いこみ)で片づけてしまうと見逃してしまう。
「喪失記」(姫野カオルコ)は、「恋愛しない小説」ではなく「恋愛できない小説」だった。この人はこの思いっきりの良さが魅力。
<孤独で厳格に生きてきた女性の前に、本能のままに生きる男が現れた。彼女の精神と肉体の変化は――
五年間、一度も友人と食事をしたことがない。他人と話をするのは、月二度程度という静寂だけの日々。――理津子は男に飢えていた。カトリック神父のもとで育った彼女は、恐ろしいほど規律正しい厳格な生活が、骨の髄まで染みついている。他人に、自分に嘘がつけない。誤ちには厳しい戒めもいとわない。そんな理津子の前に、本能の赴くままに生きる男・大西が現れて……。子供から大人へ――。精神と肉体の変化、個人と社会との関わりを残酷なまでに孤独な女性を通して描ききる。>