私の男
久しぶりにジャズを聴いてみようと取り出したのが、ブルーノートの創立60周年を記念して編集された「ブルーノート・イヤーズ」シリーズの「ウェイン・ショーター」。
一曲目は聴き慣れた「イエス・オア・ノー」だ。
私は器用ではないので、本を読んでいるときはBGMがあってもほとんど聴いていない。そしてそのBGMに気になる曲があると今度はそっちを聴くのに気を取られて、本の方は字面を追っているだけになり、その中身は頭に入っていないということになる。
そんなわけで、本を読んでいる時はどのCDもそうであるが、一曲目の出だしから一分ぐらいまでの演奏はちゃんと聴いているが、その後はほとんど聴いていない。だから一曲目は「聴き慣れ」てくるのだ。さてその「イエス・オア・ノー」。ピアノはマッコイ・タイナー、ドラムはエルヴィン・ジョーンズだ。これでベースがジミー・ギャリソンだったらコルトレーン一家勢ぞろいだがベースはレジーワークマン。ついつい聴き入ってしまった。やはりショーターはコルトレーンよりスマートだ。
ま、これは好みだからやはりコルトレーンが良いという人もいるだろうが、私はショーターのこのスマートさが嫌いではない。
昨日読んだのは「私の男」(桜庭一樹)。直木賞受賞作だが、こういう愛の形(父娘の近親相姦)を描かなければならない必然性のようなものが私にはよくわからないので、最後まで小説の世界に浸ることができなかった。近親相姦、SM、DⅤ(ドメステッィク・バイオレンスの方)は私の苦手トリオだ。読むと暗くなる。うがった見方をする人は、深層心理学的にいうとこういう世界への憧れを抱いているということになるのかもしれないが、とにかくそういう小説には感情移入できない。ま、こういう禁忌に挑んだからこそ直木賞を受賞したのだろうけれど。
だが、そういう本筋とは関わりなく時代背景として語られる、奥尻島の地震による津波と大火、拓銀の破たん等の事件を半分以上忘れている(そう言えば、そんなこともあったなあと思う程度だという意味で)ことに気がついて、ゾッとした。要は他人事なのだ、世の中の今起こっているすべてが。こんな調子であと数年もすれば「3.11」も忘れてしまうのだろう、きっと私は。人の不幸よりわが身の幸せを優先させる、嫌われるだろうなぁ、こういう私の性格。
<私は腐野花(くさりの・はな)。着慣れない安いスーツを身に纏ってもどこか優雅で惨めで、落ちぶれた貴族のようなこの男の名は淳悟(じゅんご)。私の男、そして私の養父だ。突然、孤児となった十歳の私を、二十五歳の淳悟が引き取り、海のみえる小さな街で私たちは親子となった。物語は、アルバムを逆からめくるように、花の結婚から二人の過去へと遡ってゆく。空虚を抱え、愛に飢えた親子が冒した禁忌、許されない愛と性の日々を、圧倒的な筆力で描く直木賞受賞作。>