「自分ではほとんどやらないのに、私の家事にダメ出しばっかりしてくる夫が何を考えているかが分かった」。こんな感想が寄せられているのが、書籍『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)。本パートでは同書から抜粋して、多くの人が持っていて、コミュニケーションの妨げになりがちな「認知のゆがみ」や「認知バイアス」を紹介していきます。3回目は、「他人の知識=自分の知識」バイアスについて。
期待の後輩が「会社を辞めたい」。あなたはどう返す?
スティーブン・スローマン教授は「多くの人は、自分の中にある知識と外にある知識の区別があまりついていない」と言います。そしてこれを「知識の錯誤」と呼んでいます。これは例えば、専門家の意見をそのまま自分の意見のように話してしまう、といった形で現れます。
先日、知り合いのビジネスパーソン(Mさん)から、この「他人の知識=自分の知識」バイアスで苦い思いをした話を聞きました。Mさんは、仕事の適性や人間関係、キャリアに悩む後輩のIさんから、
「私、会社を辞めたいんです……」
と切り出されたそうです。そこでIさんの仕事ぶりを評価していたMさんは、キャリアプランを提案しつつ、
「もう少しがんばってみたらどうだろうか」
と説得を試みました。するとIさんは困った様子で、
「でも、先輩は人事の……、キャリアのプロじゃないですよね?」
と返しました。
そう言われたMさんはショックを受けながらも、「確かにその通りだ」と思ったそうです。MさんがIさんを説得しようとして話したのは、自分が経験したことでもなく、また専門知識に基づいた話でもありませんでした。キャリアとはこういうものだという一般論、あるいは何かの書籍やインターネットの記事などで読んだ話と、Mさん自身の意見でした。
また、もし後輩のIさんが、本当に人事やキャリアの相談をしたいのであれば、その道のプロのところへ行ったはずです。
無自覚だからこそバイアスは恐ろしい
ではなぜIさんは、Mさんのところに来たのか。それは、話を聞いてほしかったからです。たぶんMさんはただ話を聞く側にまわるべきで、アドバイスなどすべきではなかった。もしくは、キャリアのプロを紹介するという方法でもよかったかもしれません。
いずれにせよ、IさんはMさんの意見が聞きたかったわけではなかったのです。
当然ですが、Mさんに何か悪意があったとか、Iさんを思い通りに動かそうとかいった意図があったということはまったくありません。それなのに、無自覚のままに、あたかも自分の知識のように他人の知識を借りて話してしまう。これがバイアスの怖いところです。
今回の話では、Iさんの鋭いつっこみによってMさんは自身の「他人の知識=自分の知識」バイアスに気づきました。しかし、同じシチュエーションでも、後輩や部下への思いが強いからこそ、「せっかく相談に乗ってやっているのに、そんなふうに返すとはなんだ!」と感じてしまうこともあるかもしれません。
これと同じことが、理解にも、起こります。周囲の人が理解しているけれども自分は理解していないことでも、人は、「自分は理解している」と思い込むといいます。
どんな仕事も、日常生活も、誰か一人の知識や理解ではなく、複数の専門家がそれぞれの知識や理解を持ち寄って支えられていますよね。そうした知識のコミュニティと自分を同一視してしまうのです。
「他人の知識=自分の知識」バイアスとは?
ちょっと聞きかじったことを、あたかもの自分が知っていることのように話してしまう。インターネットで見た専門家の意見を、自分の意見として話してしまう。
本当はよく知らないのに取ってしまった無意識のそうした態度が、ときにコミュニケーションを失敗させてしまうこともあります。また、極めて限定的な知識しかなくても、その話を何度もしていれば、あたかも「詳しく知っている」かのように記憶が書き換わってしまうこともある、というのはこれまでご紹介した通りです。
こうなってしまえば、いったい自分がどこまで本当に理解できているのか、わかりませんね。
ただしそれが、決定的に悪いことだというわけではありません。人も動物ですから、この世で生き残ることが何より優先されます。完璧な理解を求めて1年間学ぶよりも、完璧ではないけれどまあまあの判断ができる知識を1日で得たほうが、生き延びるためにはずっと有利です(それが極端に外れていない、だいたい正しいと言っていい知識なら、ですが)。そういった動物としての生き方が、こうした思い込みの根幹にあるのではないかと思います。
大切なのは「外界の知識=私の知識」という思考バイアスに気がつくこと。自分の知識は専門家の知識とは違うと自覚することです。
相談に乗る際の認知科学的な留意点
さて、このような例を挙げると、「相談されたときに、何も返せなくなってしまう」と思われる方もいるかもしれません。「他人の知識=自分の知識」バイアスに気づいた私たちは、周囲の人から相談されたときに、どう振る舞うのがいいのでしょう。
相手の悩みを聞く立場になったとき、最初に求められるのは「聞く姿勢」です。
不安を抱えていたり、悩んでいたりするとき、人は誰かに話を聞いてもらいたいと願います。話を聞いてもらっただけで、気持ちがスッキリすることもよくあるものです。
皆さんも、仕事や人間関係の悩みを、一人で抱えたままでいるのは苦しいはずです。どんな形であっても、それを言葉にして話してみることで、心が軽くなったり、話しているうちに考えが整理されたりすることもあるでしょう。同様に、相手はあなたに、話を聞いてもらいたいのです。
人というのは、話したがりです。ほとんどの人は、他人の話を聞くよりも、自分の話をしたがります。しかし大事なのは、相手の話を聞くことです。それはとても難しいことですから、それこそ「話を聞くぞ」と意識して、一生懸命に聞かなければなりません。
コミュニケーションのスタートは、相手の話を聞くこと。そう言っても過言ではないのです。
今井むつみ著/日経BP/1870円(税込み)