本日はぁ。ディーター・ディートリッヒ先生とも最後。
ドイツ語は今月はテストクラスでひいふうひいふう。
先生も、生徒を厳しくスパルタしなければならなかったので、
自分の言いたいこと(ほとんどが説教)も言えず、なぜかというと
話が長くなってしまい、授業がすすまないという弊害を自ら分かっていて、がまんしていたのだ。
さあ、本日は最終日ということで、
大いにディスカッションしていただこう。
始めたのは、言わずと知れる先生。
このドイツ語の学校では今、あつぅいテーマがあるという。
休み時間、先生同士はこの話題で持ち切り。
さらにイスラム圏の生徒の間でも。
答えは、そう簡単にはいかないようだ。
というのは、
熱心なるイスラム教の生徒がお祈りの部屋を学校側から
提供していただきたいというのだ。数十人の署名まであるという。
ドイツ人の先生方はキリスト教である。
これは、宗教的な対決!
キリスト教対イスラム教かぁ?
先生と生徒という社会枠での上下関係が
あるいは、やはりキリスト教とイスラム教のどちらが宗教として勝っているかというような
一神教同士の終わりない戦いもかねあってのことだと思ったが。
そうではないようなのである。
というのは、真剣なるカトリック信徒
ディーター・ディートリッヒ先生の事の事情観察によれば、
公の場所に宗教的な事柄をもってきたくない、というドイツ人教師たちの心情が対抗しているのだと。
ディートリッヒ氏は、ドイツ人たちの意識していない本音をつく。
宗教性を身の回りにぜぇったい置きたくない!といわんばかりのドイツ人の態度。
宗教そのものを、相反するものとしてを排除するかのようなその態度に
愕然の先生。
私はカトリック教徒です!
と現代にいたって、誰も聞いてもしないのに、
話の文脈で、自分の宗教を宣言する先生。
それは、それで、また珍しい存在になってると思うんですけど。
神は死せり、ニーチェの系譜をつぐ典型的現代ドイツと
神は以前死んでいないイスラム。
神は死んだといっても、神がいないっていう仏教系の雰囲気にすらなってないなーと思う私。
そして、神がイスラムで死んでしまったら、だれがまとめるんだろう、と心配する私。
クラスには、イスラム教でも、信心深い人もいればそうでない人も、
そして宗派によってはお祈りの時間などの規則が厳しいところと、そうでないところがあるらしい。
イスラム圏の人々から彼らの意見も聞く。
ああ、ディスカッションになってきちゃったぁ。
ディートリッヒ先生が話を終わらせようとしているところへ。
あのねぇ。私思いますけれどもねぇ。
もしね、本当にお祈りしたいと思うんだったら、この近くに
だまって部屋を借りればー。あとで、みんなに知らせればいいのよ。
と提案してみた私。
だって、そこまでお祈りしたいのなら、
やればいいのよー。議論を巻き起こさないで、
自分で解決できる方法を考えればいいのだ、と仏教的に言ってみたわけだけど
皆は、資本主義の国、アメリカの愛弟子の言う事だと
思っているにちがいない。