日本語1音の名詞を分類する試みとして、前回は「矢」を分析した。
「矢」は他のものと比べて、次の性質を持つとした。
・物体である
・人工のものである
・目に見える
・個体である
・食べられない
・世界に無数にある一般的なものの名前である
・独立して動く<=「帆」との違い
・生命を持っていない
・大きさがまあまあ同じである
・母体であるもの(弓)によって動かされて機能する<=「帆」との違い
★
第33回目の今回は「湯」(ゆ)について研究する。
「矢」は他のものと比べて、次の性質を持つとした。
・物体である
・人工のものである
・目に見える
・個体である
・食べられない
・世界に無数にある一般的なものの名前である
・独立して動く<=「帆」との違い
・生命を持っていない
・大きさがまあまあ同じである
・母体であるもの(弓)によって動かされて機能する<=「帆」との違い
★
第33回目の今回は「湯」(ゆ)について研究する。
「湯」とは温かい水のことである。
水とは一酸化二水素(H2O)のことだ。
英語ではhot waterという。
熱い水、である。
waterという名詞に、hotという形容詞をつけている。
湯を語る独立した名詞がない。
中学か高校の頃に国語のテストで出た問題で、言葉はそれを語る民族にとって関心が強いものが多く分かれる、また、未開な土地の言葉ほど多く分かれるという文章を読んだことがある。
アラスカやカナダの先住民族(エスキモー。イヌイット)は「雪」を語る言葉が大変多く分かれているということである。
べちゃっとした雪とか、パラパラした雪とか、言葉がめちゃくちゃ多く分化しているというのである。
こういう風にまとめてしまうとちょっと差別的な文章の用語だが、なるほどと思わなくもない。
よく寿司屋の店先に置いてある湯のみで、魚偏の漢字が多く書かれている。
「鮪 鯖 鰯 鯵・・・」とかいうやつである。
他の国の言葉を調べたわけではないが、ここまで細かく分類されているのはやはり魚食文化の日本ならではという気がする。
同じ水という言葉を水と湯に分ける。
言葉というシステムを考えると、「hot」という他に「food」とか「summer」とかいう言葉に付けられる形容詞を、「water」というより一般的な名詞に付けた英語の方が、合理的で、ルールが少なく、優れているような気がする。
しかし「お湯をちょうだい」とか、「道路の裂け目からお湯が噴き出している!」とかいう咄嗟のときに、一語で言える日本語の方が、必要にかなっている気もする。
日本人(中国人も?)は、お茶やスープを飲んだり、温泉に使ったりして、お湯に触れる機会が欧米に多い、ということだろうか。
上の段落を書いて気づいたが、この言葉は圧倒的に「お」を付けて使う。
「ユをちょうだい」とか言うと何を言っているかよく分からない。
ここはやはり「オユ」と言わないとダメである。
これは面白い現象である。
志ん朝の落語など聞いていると、江戸時代の男がお風呂に行くという意味で「湯ゥ言ってくる」などと言うが、ちょっと伸ばしている。
ぼくは大分県別府市の出身だが、温泉どころであって、「温泉街」と言われる。
ご当地ソングで(たぶん西条八十作詞?)
〽別府湯の町 ヨサコリャサイサイ 別府湯の町 湯川に湯滝 アリャサッ
という大変通俗的な歌があるが、実際、そのへんの側溝をお湯が流れている。
通学路の横から湯気が吹き出していて、硫黄の匂いがして、それが当たり前で育ったので、なんとなく湯気が漂っていないと調子が出ない。
あんな町も珍しいと思う。
★
水とお湯を分けるのはどのへんであろうか。
お風呂としては摂氏38度ぐらいでもうちょうどいいという気がする。
40度は熱い。
でもお茶にするならせめて60度、70度にはしないといけない。
カップラーメンを作るなら90度以上ということで、ずいぶん広い範囲である。
ぬるいとぬるま湯という。
しかし、お風呂としては36度とかがぬるま湯で、お茶の場合は45度とかでもぬるま湯というと思う。
でもお風呂が45度だったら熱くて入れない。
ということは同じ45度でも用途によって呼び名が変わるのであろうか。
あまり意識しないが、もしそうなら、不正確な言葉である。
これまで一文字の言葉をいろいろ研究してきたが、ある物質のある範囲を指していて、しかもその範囲があいまいではっきりしない、というのは初めてだ。
この誰も読んでいない連載も終盤に差し掛かったが、ここに来て新しい発見があった。
★
さて、定義に入る。
明らかに「酢」と「血」に近いが、「酢」と「血」からも大変遠い。
第11回は、「酢」(す)には以下のような特徴があるとした。
「酢」(す)
・物体である
・人工のものである
・目に見える
・液体である
・人間が食べるためのものである
・世界に無数にある一般的なものの名前である
・生命を持っていない
・どんなに小さいことも、どんなに大きなこともある
第14回は、「血」(ち)には以下のような特徴があると分かった。
「血」(ち)
・物体である
・自然に存在する(※ここが酢と違う)
・目に見える
・液体である
・世界に無数にある一般的なものの名前である
・生物の一部として内蔵されており、生きている(※ここが毛と違う)
・人間にも動物にもある
・どんなに少ないことも、どんなに多いこともある※訂正!
ということで、「湯」は以下のような特徴がある。
・物体である
・自然に存在する
・液体である
・世界に無数にある一般的なものの名前である
・どんなに少ないことも、どんなに多いこともある
・少量の不純物を除き、一種類の物質でできている(※ここが酢、血と違う)
・ある一定の範囲の温度にある(※ここが酢、血と違う)
大きな特徴として、H2Oという一種類の物質からできている。
これは間違いない。
次に一定の範囲の温度である。
水とお湯を分けるのは明らかにその熱さである。
ただ、上で考察したように、どれほど熱ければ湯と呼ぶのか、その境目ははっきりしない。
100℃を下回ることは確かだ。
それを超えると湯気(vapor)になり、明らかに別物である。
「目に見えない」は除いた。
「湯」は目に見えるだろうか。
透明で見えないと思うのである。
蛇口から出ているところは明らかに見えるが、中に飛び込んでしまうと、空気と一緒で目に見えない。
逆に、水の中では空気が泡になるから見える。
あれは空気が見えているというよりは、その境目が見えているのである。
空気中で水の流れが見えるのもそれと一緒だ。
血は赤いから、血の海の中に飛び込んだとしても(あまり想像したくないが)、見える。
お酢はどうだろうか。
あまりお酢の海という状況を想像したことがない。
お酢工場に言って、お酢の海に飛び込んだら、お酢は透明だから見えないと思うのだろうか。
それよりも酸っぱくて体中が痒くなり、鼻がツーンとするし、目が開けてられないと思う。
早い話、すぐ死んでしまうのではないだろうか。
だから、お酢の中にいるとお酢がどんな風に見えるかなんて、その中に飛び込めば死んでしまうのであれば、あまり考察する価値はないのではないだろうか。
でも、防水のビデオカメラを放り込めばどう見えるか分かるだろうか。
ううむ。
面倒だから「目に見える」は取り除こうか。
透明な物質は「目に見える」ことはないと考えるのが面倒がない気がする。
透明な物質は相が異なる物体と隣り合ったとき境界が(屈折率の関係で)見えるだけで、その物質そのものが見えているわけではないのである。
じゃあ「泡は見えない」と言い切ってしまっていいだろうか。
泡は物体/物質のことではなく、気体が液体/固体の中を球状に固まる現象を指すのだから、これは目に見えるでいいのである。
火が目に見えるのと一緒である。
これはいいことを言った気がする。
きょうこの文章を書いて思ったことには、物の名前を定義するのはある程度科学の問題になるということだ。
水とお湯を何が分けるか、とか、水は目に見えるか、水を目に見えないとすると泡は見えないでいいのか、とかを考えると、どうしても科学の問題になる。
あと、一文字の名前には普通「お」を付けて発する言葉が多い。
単に丁寧語であるだけでなく、語調を整えるのに「お」が必要になる。
「お酢」、「お湯」、「お麩」などである。
一文字だと何のことか、とくに口語では分からない。
逆に「お血」とか「お屁」とか、「お矢」とかはあまり言わない気がする。
「お手」とか「お名」とかは、特に丁寧にしたいときは付けるが、普通は付けない。
この3種類の違いはどこから来るのだろうか。
水とは一酸化二水素(H2O)のことだ。
英語ではhot waterという。
熱い水、である。
waterという名詞に、hotという形容詞をつけている。
湯を語る独立した名詞がない。
中学か高校の頃に国語のテストで出た問題で、言葉はそれを語る民族にとって関心が強いものが多く分かれる、また、未開な土地の言葉ほど多く分かれるという文章を読んだことがある。
アラスカやカナダの先住民族(エスキモー。イヌイット)は「雪」を語る言葉が大変多く分かれているということである。
べちゃっとした雪とか、パラパラした雪とか、言葉がめちゃくちゃ多く分化しているというのである。
こういう風にまとめてしまうとちょっと差別的な文章の用語だが、なるほどと思わなくもない。
よく寿司屋の店先に置いてある湯のみで、魚偏の漢字が多く書かれている。
「鮪 鯖 鰯 鯵・・・」とかいうやつである。
他の国の言葉を調べたわけではないが、ここまで細かく分類されているのはやはり魚食文化の日本ならではという気がする。
同じ水という言葉を水と湯に分ける。
言葉というシステムを考えると、「hot」という他に「food」とか「summer」とかいう言葉に付けられる形容詞を、「water」というより一般的な名詞に付けた英語の方が、合理的で、ルールが少なく、優れているような気がする。
しかし「お湯をちょうだい」とか、「道路の裂け目からお湯が噴き出している!」とかいう咄嗟のときに、一語で言える日本語の方が、必要にかなっている気もする。
日本人(中国人も?)は、お茶やスープを飲んだり、温泉に使ったりして、お湯に触れる機会が欧米に多い、ということだろうか。
上の段落を書いて気づいたが、この言葉は圧倒的に「お」を付けて使う。
「ユをちょうだい」とか言うと何を言っているかよく分からない。
ここはやはり「オユ」と言わないとダメである。
これは面白い現象である。
志ん朝の落語など聞いていると、江戸時代の男がお風呂に行くという意味で「湯ゥ言ってくる」などと言うが、ちょっと伸ばしている。
ぼくは大分県別府市の出身だが、温泉どころであって、「温泉街」と言われる。
ご当地ソングで(たぶん西条八十作詞?)
〽別府湯の町 ヨサコリャサイサイ 別府湯の町 湯川に湯滝 アリャサッ
という大変通俗的な歌があるが、実際、そのへんの側溝をお湯が流れている。
通学路の横から湯気が吹き出していて、硫黄の匂いがして、それが当たり前で育ったので、なんとなく湯気が漂っていないと調子が出ない。
あんな町も珍しいと思う。
★
水とお湯を分けるのはどのへんであろうか。
お風呂としては摂氏38度ぐらいでもうちょうどいいという気がする。
40度は熱い。
でもお茶にするならせめて60度、70度にはしないといけない。
カップラーメンを作るなら90度以上ということで、ずいぶん広い範囲である。
ぬるいとぬるま湯という。
しかし、お風呂としては36度とかがぬるま湯で、お茶の場合は45度とかでもぬるま湯というと思う。
でもお風呂が45度だったら熱くて入れない。
ということは同じ45度でも用途によって呼び名が変わるのであろうか。
あまり意識しないが、もしそうなら、不正確な言葉である。
これまで一文字の言葉をいろいろ研究してきたが、ある物質のある範囲を指していて、しかもその範囲があいまいではっきりしない、というのは初めてだ。
この誰も読んでいない連載も終盤に差し掛かったが、ここに来て新しい発見があった。
★
さて、定義に入る。
明らかに「酢」と「血」に近いが、「酢」と「血」からも大変遠い。
第11回は、「酢」(す)には以下のような特徴があるとした。
「酢」(す)
・物体である
・人工のものである
・目に見える
・液体である
・人間が食べるためのものである
・世界に無数にある一般的なものの名前である
・生命を持っていない
・どんなに小さいことも、どんなに大きなこともある
第14回は、「血」(ち)には以下のような特徴があると分かった。
「血」(ち)
・物体である
・自然に存在する(※ここが酢と違う)
・目に見える
・液体である
・世界に無数にある一般的なものの名前である
・生物の一部として内蔵されており、生きている(※ここが毛と違う)
・人間にも動物にもある
・どんなに少ないことも、どんなに多いこともある※訂正!
ということで、「湯」は以下のような特徴がある。
・物体である
・自然に存在する
・液体である
・世界に無数にある一般的なものの名前である
・どんなに少ないことも、どんなに多いこともある
・少量の不純物を除き、一種類の物質でできている(※ここが酢、血と違う)
・ある一定の範囲の温度にある(※ここが酢、血と違う)
大きな特徴として、H2Oという一種類の物質からできている。
これは間違いない。
次に一定の範囲の温度である。
水とお湯を分けるのは明らかにその熱さである。
ただ、上で考察したように、どれほど熱ければ湯と呼ぶのか、その境目ははっきりしない。
100℃を下回ることは確かだ。
それを超えると湯気(vapor)になり、明らかに別物である。
「目に見えない」は除いた。
「湯」は目に見えるだろうか。
透明で見えないと思うのである。
蛇口から出ているところは明らかに見えるが、中に飛び込んでしまうと、空気と一緒で目に見えない。
逆に、水の中では空気が泡になるから見える。
あれは空気が見えているというよりは、その境目が見えているのである。
空気中で水の流れが見えるのもそれと一緒だ。
血は赤いから、血の海の中に飛び込んだとしても(あまり想像したくないが)、見える。
お酢はどうだろうか。
あまりお酢の海という状況を想像したことがない。
お酢工場に言って、お酢の海に飛び込んだら、お酢は透明だから見えないと思うのだろうか。
それよりも酸っぱくて体中が痒くなり、鼻がツーンとするし、目が開けてられないと思う。
早い話、すぐ死んでしまうのではないだろうか。
だから、お酢の中にいるとお酢がどんな風に見えるかなんて、その中に飛び込めば死んでしまうのであれば、あまり考察する価値はないのではないだろうか。
でも、防水のビデオカメラを放り込めばどう見えるか分かるだろうか。
ううむ。
面倒だから「目に見える」は取り除こうか。
透明な物質は「目に見える」ことはないと考えるのが面倒がない気がする。
透明な物質は相が異なる物体と隣り合ったとき境界が(屈折率の関係で)見えるだけで、その物質そのものが見えているわけではないのである。
じゃあ「泡は見えない」と言い切ってしまっていいだろうか。
泡は物体/物質のことではなく、気体が液体/固体の中を球状に固まる現象を指すのだから、これは目に見えるでいいのである。
火が目に見えるのと一緒である。
これはいいことを言った気がする。
きょうこの文章を書いて思ったことには、物の名前を定義するのはある程度科学の問題になるということだ。
水とお湯を何が分けるか、とか、水は目に見えるか、水を目に見えないとすると泡は見えないでいいのか、とかを考えると、どうしても科学の問題になる。
あと、一文字の名前には普通「お」を付けて発する言葉が多い。
単に丁寧語であるだけでなく、語調を整えるのに「お」が必要になる。
「お酢」、「お湯」、「お麩」などである。
一文字だと何のことか、とくに口語では分からない。
逆に「お血」とか「お屁」とか、「お矢」とかはあまり言わない気がする。
「お手」とか「お名」とかは、特に丁寧にしたいときは付けるが、普通は付けない。
この3種類の違いはどこから来るのだろうか。