ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

宮崎牛口蹄疫問題、情報の断絶、地方分権

2010å¹´05月18æ—¥ | åœ°æ–¹æ”¿æ²»ãƒ»çµŒæ¸ˆ
出張で宮崎に行っていたのだけれど、こちらの「口蹄疫」問題は相当深刻なようだ。ここ数日ではテレビの全国ニュースやワイドショーでも取り上げられているようだけれど、地元との温度差はかなり違う。被害額などは新聞やテレビのニュースを見てもらうとしても、例えばその感染を食い止めるために、道路を通行中の農業関係者の自動車を止めて消毒したり(一般車も含めるべきだという議論もある)、近隣の県では、仕事だとしても宮崎県の農業関係者の立ち入りを禁じたりしているところもある。

何よりも、今、宮崎牛ブランドを確立した種牛・安平が生存の危機に瀕している。

現在の「宮崎牛」ブランドを確立したのは宮崎県家畜改良事業団が宮崎県産の「安福」と岐阜県産の「きよふく」とを掛け合わせることで、品種改良に成功した「安平」がきっかけといわれている。そこで生まれた子牛は宮崎県だけではなく、松坂牛や佐賀牛などそれ以外の地方のブランド牛にも利用されている。日本の和牛を支えているのだ。今回、この宮崎県家畜改良事業団で飼育中の牛の中にも口蹄疫が発症してしまった。

宮崎県家畜改良事業団ではそのうち優秀な6頭を緊急避難させて「宮崎牛」ブランドの生き残りを図ったようだが、これらも感染前に避難できたかどうかは微妙なところ。仮にこの6匹が感染でもしてようなら、宮崎牛はもとより、全国のブランド牛の供給にも影響がでるだろう。

そんな状況の下、テレビの報道を見ているとちょっと違和感が。

テレビの報道などを見ていると「国の対策の遅れが…」というコメントが多く見受けられる。これはもちろんその通りなのだけれど、防疫対策の主体が何故、「国」なのだろう。何故、「県」と「地方(ブロック)」ではなかったのだろう。

今回のマスコミの報道は、国の対策の遅れと同様、迅速だったとはいえない。僕はここに共通の問題があるのだと思う。つまり東京中心のスタイルではこうした「地方」の問題への対応は事後的にならざろうえないのだ。

ITの力を利用すれば、地方から東京への情報伝達能力、東京での地方への情報収集能力は一昔前に比べれば遥かに高いものがある。地方の一市民の声がブログやツイッターで発信されれば、ほぼ時差なくそれを東京の誰かが受信することができる。2ちゃんねるに掲示板が上がれば全国からそれに対しての声も集まるだろう。こうした状況にも関わらず、しかし今回の問題は東京のマスコミや官庁には届いてはいない。

技術的には「距離」という概念や「発信主体」という概念がもつハードルは遥かに低くなったものの、こうした問題の「深刻さ」や「重要性」を「実感」として理解するために必要なのは、結局、「速さ」や「量」ではない。同じ生活圏・文化を抱えた者同士の「感受性」「経験」「想像力」によってなのだろう。

結局、東京中心のマスコミにとっては「対岸の火事」でしかなく、またそれを見ている宮崎以外の全国の観客たちにとっても「対岸の火事」に過ぎず、そうした者たちの共通の批判の矛先として、手っ取り早く「国」を批判することになる。

しかしこれは一面の真実でもある。結局、赤松大臣を含め農林水産省にとってもやはり「対岸の火事」でしかなかったのだろう。これだけ対策が遅れた原因はそういうことなのだ。

そう考えると、やはりこうした問題も含めて、「地方分権」をどう進めるかというのは大事な問題だ。「国の対策」を待つのではなく、まずは都道府県あるいは地方ブロック単位で積極的に対策を講ずる、そうしたことが可能な体制やスキーム、予算や権限の配分が必要なのだろう。結局のところ、その土地で起こった問題を真剣に考えるのはやはりその土地の「住人」たちなのだ。




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