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牧原憲夫『民権と憲法』を読んでいて、少し驚いたのは、そこに朝鮮王妃殺害事件に関与する以前の三浦梧... 牧原憲夫『民権と憲法』を読んでいて、少し驚いたのは、そこに朝鮮王妃殺害事件に関与する以前の三浦梧楼(ごろう)のことが出てきたことだった。それによると、三浦は1880年代に山県有朋を悩ませた「四将軍」の一人だったのである。*1 明治一四年政変で政府批判の意見書を出した谷干城(たてき)・鳥尾小弥太(こやた)・三浦梧楼・曾我祐準(すけのり)の四人は、薩長出身者が上層部を独占し規律も乱れた陸軍に不満と危機感をもっていた。八一年、三浦・谷が校長を務めた陸軍士官学校の卒業生を中心に兵学研究の月曜会が発足すると、四将軍は顧問に迎えられた。政治的には保守的な四将軍と、能力本位の抜擢や近代的軍隊の建設を望む若手将校が結びついて、反山県派が生まれたのである。 彼らは「天皇の信任も厚く、師団の検閲・教育を担当する天皇直属の監軍部が設置されると、東・西の監軍部長に谷、三浦が任命され、曾我は参謀本部次長になった」
2011/02/14 リンク