蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

新しいリュックは強靭

仕事で使っていたリュックがさすがにボロボロすぎたので買い替えることにした。

このリュックは新卒のときに購入したものだから6〜7年くらい愛用したことになる。シンプルな機能で、物がよく入り、しなやかで温かいやつだった。

激務による酷使によってファスナーが壊れ、修理までしたほど、大切に使っていた。

しかし7年も使っていれば、たまに洗っていたものの、さすがに汚くなりすぎた。鳩の巣と思われても仕方がないくらい汚れており、あらゆるシミが宿痾のごとく染みついていた。ファブリーズをこぼしたこともあったし、食べ物の汁なども飛んだのだろうし、飲みの席のタバコの煙も吸収していたし、毎日満員電車で揉まれたこともあって複雑なニオイを漂わせていた。壮年男性が人生経験に則した含蓄のある言葉を今にも放ってきそうな、そんなニオイがしていた。

ベルトも緩くなってすぐに伸びていたし、ファスナーは相変わらず調子が悪く、全開で開けることはできなくなってしまっていた。

買い替え時を迎えたのだ。

 

新しいリュックを買いに百貨店を訪れた。

通勤カバン専門店とでも言いたげな店があり、入るや否やセールでリュックが割引されていた。殊更に「現品かぎり」などと書いてある。

「そちらのリュック大変人気でして」と女性の店員さんがすり寄ってくる。

「へえそうなんですか」などと相槌を打ちながら、そのリュックを手に取り、観察する。

大きさは一般的なビジネスリュックくらいで、形は四角く、触り心地はいかにも丈夫そうだ。ポケットがやたら多く、機能性が抜群らしい。

「ほら、ここをこうしますと、リュックとしてだけでなくカジュアルなビジネスバッグとしても使えますし」

リュックのベルトは外すことができ、手持ちカバンとして使用も可能だそうだ。

男というのは不思議なもので、何か、機能性みたいな言葉に弱い。ロボットやクルマが好きな人が多いのもこういった少年心をくすぐられるからだろう。それらの機能をスマートに使いこなす自分を想像する。このポケットには名刺入れを忍ばせ、こちらのポケットにはノートPCを格納し、この袋状の収納には折り畳み傘を隠すのだ。

無骨な見た目もすぐに気に入った。こんなことでチャラチャラしたデザインのリュックを買ったら男が廃る。

「こちらのリュックの素材は防水、防刃でございまして、ナイフも通さないほど頑丈です」

ナイフも通さないほど頑丈とは恐れ入った。これでいつ暴漢が現れても安心だ。

もしこの世界が小説なら、そしてこのリュックを買ったのが物語の冒頭なら「ナイフも通さない」という言葉が伏線として生かされるのだろう。どうか私の人生ではこの伏線が回収されないことを願う。

気に入った。セール価格でそれを購めることにした。

 

前のリュックは捨てた。その日からすぐに新しいものに乗り換えた。

新しいリュックの使い心地にはおおむね満足している。

ただ、機能を十分に生かせているとは言えないのが現状だ。

よく考えたらノートPCは持ち歩かないし、なんていうか、機能が多すぎるのがネックになっている。

使っていないポケットがたくさんあるばかりか、今なお「こんなところにこんな隙間があったのか」と驚かされることもある。誰かにこっそりポケットを盗まれても私は気づかないだろう。

機能性という可能性を日々背負わされているような、重圧感、圧迫感。

私とリュック、どちらが先にボロボロになるか、楽しみだ。相手は強靭である。

WBC開幕!

WBCが開幕した。

野球どころかスポーツ全般に疎い私はLINEニュースで開幕を知ったくらいだ。開会式とかあったのだろうか。

前回が3年前とかだったように思う。

「憧れるのをやめましょう」と大谷くんが言っているのをニュースで見て、「いやどの口が(笑)」と思ったのをよく覚えている。

あれから3年、大谷くんが今年も「憧れるのをやめましょう」と言ったらさすがにこの人はどこかおかしいのではないかと疑うだろう。

前回大会はたしか優勝した記憶があるので、連覇をかけて頑張ってほしいところである。

 

ここまでの文章を読んでわかるとおり、本当に野球のことを知らない。恥ずかしいくらい知らない。

選手も大谷翔平しか知らない。こんな私でも大谷翔平は知っているから、大谷くんはすごい(ちなみに水原一平も知っているが、彼は野球選手ではなかったはずだ)。

まったく野球のことに疎いのでよくわからないのだが、野球ってそろそろシーズンが始まるのではなかっただろうか。春くらいから始まって、秋頃に終わっているイメージだ。とすると、WBCとめちゃくちゃ被っているけど大丈夫なのだろうか。

世界的にWBCが開催される年は開幕を遅らせるみたいな措置が取られるのだろうか。それで言ったらサッカーのワールドカップにも同じことが言えるが、スポーツ界はどうなっているのか。世界大会が終わったとに自国のリーグ戦って、モチベーションは保てるのだろうか。謎である。「仕事だから」という理由でなんとかなるものなのか。

 

今年の開催国は日本、ということでよいのだろうか。

水道橋の東京ドームで試合が行われているらしいので、アメリカなどに水道橋という地名がないのだとしたら、十中八九、日本での開催と見て間違いない。

何か国参加するのかわからないが(サッカーほどではないだろう)、それなりの国が集まるはず。東京ドームだけでさばききれるわけがないから、PayPayドームとかエスコンフィールドとか使うはずだ。神宮球場はどうだろう。

選手や応援団のみなさんの移動は大変なのではないか。宿泊地はどうするのだろうか。オリンピックより規模は小さいとはいえ、それでも世界大会である。日本開催ならもっと盛り上がっても良いと思うが、いかがなものか。

 

これくらい、ものを知らないと、ふつうに一般的な価値観とか文化から置き去りにされそうで怖いので、今年はスポーツ観戦をしようかなと思っている。

会社の人たちがスポーツ好きなのもあって、野球どころかあらゆるスポーツ選手の名前が当然のように飛び交うのだが、オリンピック・メダリストの名前すらもわからないので話についていけないし、世間とどんどんずれていく気がしており、これはちょっとマズいなと危機感を覚えている。

過日、冬季オリンピックの、名前は忘れたがスキーで坂を下っていく競技をとりあえず見たところ、それなりに面白くて熱くなれたし、安易に泣けたので、スポーツ観戦に向いていないわけではないと思う。

今年は少しでも野球に触れよう。高校生のころ、所属していた高校がそれなりに野球が強かったので観戦に行ったものだが、そのすべてが負け試合だったこともあり、負けたうえに野球部は偉そうだったので苦手意識があるのだが、試合そのものは面白さがあるからこそ、ここまで人気のスポーツなのだろう。これがバックギャモン程度のものだったらバックギャモン程度の人気しかなかったはずだ(バックギャモンもきっと面白い)。

WBC、日本でやっているからには、ぜひ見よう。

 

と思い、軽く調べたのだが、ここまでの記述に誤りがあったので訂正しておこう。

まず、日本開催というわけではなさそうだ。世界のいろんなスタジアムでやっている。選手たちの時差とか大丈夫なのか。

おそらくまだ予選?なのか、予選は世界中でやっているみたいだ。水道橋の東京ドームでもやっている。

また、テレビで試合の放送はない?らしいのか、ネトフリでやっているみたいだ。ネトフリに入っていないので、私は見られない。

今年は一旦諦めよう。

相撲見よう。なんか盛り上がってるし。

花粉症デビュー?

先週くらいから外に出ると喉が痛く、一度くしゃみが出ると止まらなくなり、目がジリジリと痒くなるようになった。

花粉症である。

去年までも鼻がちょっと出るかな〜とか、目が痒いかな〜くらいには思っていたものの、マスクをせずに外出してもさして問題はない程度のレベルで、はっきり言って意に介していなかった。「花粉症の人は大変で、哀れだな」なんてことを思っていた。

いざ花粉症になってみると、哀れなんてものじゃない。

業。

カルマだ。

花粉症は明確に公害問題であると言える。

そもそも昔石炭があまり採れなかった日本では木材を燃料にすべくそこいらにある森を伐採、各地に禿山を生み出したのが事の発端である。それではまずいということになって成長のはやい杉やヒノキを植樹したのが過ちの始まりだった。このとき先人たちが汗水流して必死になって植えた杉・ヒノキが現代の我々に猛威を振るっているというわけだ。ずいぶんと余計なことをしてくれたものだ。

ただ、あのときの自然破壊がなければ今の経済発展もないわけなので、ちょうどそのツケを払っていると考えれば納得できなくもない。物事は等価交換。これは「縛り」だ。痛い目を見ないと何も得られない。でも、こんなのはあんまりではないか。

 

これを書いている今も目が痒くて仕方がない。

夕方になったら花粉も落ち着くのだろうなと思って、マスクもせずにドラッグストアに行ったのが間違いだった。ぜんぜん花粉は飛んでいた。花粉症に慣れていないのでムーブが初心者すぎて、気持ちのいい天気だからと油断してマスクをつけずに外に出てしまうことがあり、酷い目に遭う。

なんの薬を飲んだらいい?目はどう防げばいい?いつこれは終わる?

わからないことだらけで、ひたすらに苦しんでいる。

目を洗いたい。眼球を取り出してビーカーに入れてやわらかいブラシで擦りたい。

鼻を取り外したい。先の細いブラシでしゃこしゃこ洗いたい。

洗濯物を畳むのが本当に辛い。

衣服に花粉がたっぷり付着していて、目に見えない粒子が部屋中を舞うため、パンツを畳みながらくしゃみが止まらない。もういくら天気がよくても部屋干しするしかないかもしれない。こんな悲しいことがあっていいのか。

 

冬はインフルエンザが怖かったから外ではマスクをつけていたが、これから初夏くらいまでは花粉のためにマスクなしでは生きていけなくなるのだろうか。

そんなのは嫌だ。

春の匂いをかぐことができないではないか。

なんなんだ花粉。

国が補償しろ。

図書館の歩き方

引っ越してから地域の図書館に初めて行った。

とくに用事はなかったのだが、まぁ行ってみるかせっかく税金を払っているのだし、という軽い気持ちで訪ねてみたのだった。

図書館というと調べ物をしたり勉強をしたり、その静謐さと蔵書の雰囲気も相まってなにか高尚な場所のようなイメージを持つ人もいるかもしれないが、図書館に行くモチベーションなんて立派なものでなくてよいと個人的には常々思っている。

「なんか暇だし行くか」程度でいい。

「絶対に自分では買わないだろうな」と思われる本を見つくろって、飽きるまで読み、飽きたら棚に戻せばいい。本を読むのに疲れたら途中で外に出て散歩してもいいし、休憩室から外の景色でも見ながら自販機で購入したジャムパンでもかじればいい。

マナーとルールを守れば図書館で本と過ごす方法は自由でよいのである。

 

地域の中央図書館は家から30分ほど歩いたところにありやや遠いのだが、白くて隅まで掃かれた綺麗な施設で、座席も蔵書も多く、日当たりもほどよく、気兼ねなくくつろげる雰囲気だった。外には芝生の敷かれた公園があり、犬を連れて散歩している人がいる。

当たり前だが図書館の中は静かすぎた。

静かすぎて衣擦れの音とかページをめくる音まで聞こえてくる。自分の鼻息まで気になるくらいに静かだった。

誰もが、誰かの読書を邪魔しないように、すべての行動を丁寧に、そっと動作している。それは思いやりの気持ちの表れでもあるし、マナーを重んじる素敵な人たちがたくさんいるという気持ちのいいことでもあるのだけど、少し抑圧的で、立派じみていて、強迫的でもある。そう思ったのは私のスニーカーに原因があった。

あいにく私のスニーカーはおろし立てで、歩くたびにガンダムが歩行するような「ギャシュ、ギャシュ」という音が鳴るのだ。嫌に響き、じつに顰蹙(ひんしゅく)だ。実際におじいさんに睨まれもし、もう脱いだほうがよさそうにも思えた。

スニーカーはやわらかい革でできているから擦れ合うと摩擦で音がするのだ。歩行しながら歯応えのあるガムを噛んでいるガンダムみたいな音がする。図書館でガムを噛む際も当然ながら音を立てないほうがよいため、私のスニーカーはこの場においては「アウト」である。

ただまぁ、もうどうしようもないので開き直るしかない。なるべくすり足で、能みたいな動きで棚から棚へ、人形浄瑠璃の黒子みたいに気配を消して、読みたい本を探した。

「中国文化全集」みたいな名前の、それこそガンダムの肩くらいある巨大な事典を座席に持ち込み、テキトーにページを開いて読むことにした。

イラスト、図版なし、文字のみでただひたすらに中国の文化に関わる物事が羅列され解説されている。ひとつひとつの解説は重く、充実している。

「太宗」だけで3〜4人くらい別時代の人物がいて、それぞれに違いがあることがわかる。

「夏」という国がどうやら「殷」よりもさらに前に存在していたみたいで、物的な証拠はまだあまり見られないものの、ある地域で昔話として広く伝わっており、それらしい遺跡も出てきているらしい。夏王朝は中国の歴史の根幹にあたるような巨大文明で、紀元前21世紀にまで遡るとか。時間の果てしなさに思いを馳せると歴史は実に味わい深い。

何の役に立つかはわからないが、教養とはそもそもそういうものだ。

その他、中国の武器や因習、諸子百家などたくさん書かれていて、面白いというか興味深いというか、なんか色々すごい本だった。どうやって作ったんだろう。編集委員会はたいへんな労力だったろう。

こういう「絶対に買わない本」「買えない本」を気軽に読めるから図書館は楽しい。

そのあとは土偶の写真集を眺めたり、文芸誌のバックナンバーで対談を読んだり、これまた巨大な「20世紀全データ」みたいなものすごい本をめくったりしして過ごした。

本も一冊借りた。古墳の発掘調査に関する書籍で、書店でかねがね探していたのだが見あたらなかった、今はもうあまり流通していない書籍である。二週間以内に読まねばならない。

 

図書館は勉強している人が多く、殊勝なことだなと思った。勉強するもよし、しないもよし。図書館は本と遊べる場所だ。

マナーを守り、ガンダムが歩行しながら歯応えのあるガムを噛んでいるみたいな音のするスニーカーを履いてこなければ、居心地のいい場所に違いない。

 

美味しさの限界幸せの限界

一杯7,000円のラーメンが…みたいな動画を見たのだが、それはどれくらい美味しいのか見当がつかなかった。

ラーメンはそもそも、どんな値段のものでも美味しい。

1,700円くらいになると「かなり美味しい」部類になり割と感動的なレベルなのだが、7,000円となるとどうなってしまうのだろう。1,700円とか1,800円を超えてくるともはや個人的な好みのレベルになっていそうだ。

7,000円のラーメンははたして、7,000円の味がするのだろうか。私が食べたとき、7,000円を感じ取ることができるのだろうか?

もしかしたらちゃんと7,000円の味がするかもしれないが、そのとき感じる幸せは1,700円のラーメンを食べたときと同等かもしれないし、250円の袋麺を家族とすするときの幸福感とさして変わらないか、もしかしたらその幸福度よりも低いかもしれない。

なにせ7,000円のラーメンを食べたことがないのでうまく想像ができない。

 

話は少し変わるけど、不幸って比べたり数値化できるが、幸福はそれが難しいように思う。

病気になった、大切な人を失った、無一文になった、騙された、と不幸を数えたり比べたりすることはできても、幸福に関してはすぐに最大値がやってきて、幸福と幸福のその差は微々たるものでしかないような気がしている。もしかしたらわたしが最大限の幸福を味わったことがなく、最小限の幸福ばかり摂取しているからそんなことを思うのかもしれないけど。

小さい花が咲いているのを見つけただけでも私は幸せな気持ちになるし、豪華なホテルに泊まってくつろいでいるときも幸せだし、納得のいく仕事ができて満足したときも幸せだし、250円の袋麺を食べてるときもこれらと同じくらい幸せなのだ。

LINEヤフーの元会長でPayPayをリリースした川邊さんが、街中でPayPayを使っている人を見たり決済の音を聞いたりするときに感じる喜びと、大好きなハロプロのライブに1回行ったときの喜びはほとんど同じか、あるいはライブの方が上回る、といったようなことを対談で言っていた。PayPayをリリースするには数十億円規模のお金がかかったが、ライブはせいぜい1万円しないくらいだから、ハロプロ(推し活)はかなりコスパがいい、という川邊さんにしかできない比較をしており面白かった。(多少記憶と違うかもしれないけど)

幸福ってすぐに達するものだし、値段や希少性で決まるものではなく、自分の価値観で決まるものなのだなと思った。

私もハロプロ大好きでライブによく行っては毎回幸せを噛み締めている。ハロプロが幸福の最大値とするなら、ある程度真面目に小銭を稼いでコンスタントにライブに行くだけでコンスタントな幸福を得られてしまうのだから、それだけで生きていけるなとなってしまう。

さらなる幸福を求めて努力して傷つき、さまざまなものを失ってたどり着いた先に得られた幸福が、ライブ一本と変わらなかったらどうしよう。それはもはや、ハロプロが凄すぎることに問題があるのかもしれない。

だいたい、更なる幸福を求めていこう!という考え方自体もあまり下品な気もしてくる。

でも、満足は停滞なのだろうか。

私はどうしたらいいのだろう。

「モモ」を食べる

近所のインネパ料理屋によく行く。

店内の壁にはエベレストの大きな写真がプリントされていて、麓の村々の写真や民俗的な人形が所狭しと飾られており、延々とテレビでインド的なMVが流れている。MVの中では大抵の場合おじさんと美女が愛のせめぎ合いをしていて、踊りに体をくねらせ、まったく同じメロディーを20分は続けている。それが終わると、ほとんど同じようなMVが再生される。

ネパールの国旗がかけられているから、ネパール人系のお店なのだろう。まぁ何人がやってようが料理に変わりはないのでなんだっていい。繊細そうな目をした店員さんがたどたどしくお水を配って回り、ラッシーの注文を忘れ、提供に時間がかかることもあるけど、美味しくて居心地の良いお店で気に入っている。

その店は安い割に量が多くていつも困ってしまうのだが、頼めば余ったナンやカレーをテイクアウトさせてくれる。チーズナンが絶品で、あまりにも量が多くて後半は試練に他ならなくなる。そういうときはプラケースに入れて持ち帰らせてくれる。そういう柔軟さもこの店の好きなところだ。

 

豊富な種類のカレーに変わり種のナン、タンドリーチキンやサラダなどに混じって、聞き慣れない料理がメニューに混じっていた。

それが「モモ」である。

果物の桃ではない。どこか異国の料理の「モモ」だ。

こういう店なので、メニューに「モモ」に関する説明はない。「モモ」「スパイシーモモ」「スープモモ」の3種類の写真があるばかりだ。なにやらシュウマイか餃子みたいな雰囲気のものだと推測できる。スパイシーモモは真っ赤で辛そうだ。

インネパ料理屋でカレー以外のものを食べたことがあまりない。食べてもタンドリーチキンくらいで、普段はこうした料理には食指を伸ばさない。カレーを食べに来ているからそもそもカレー以外のサイドメニューが目に入らなかったということもある。

一度「モモ」が目に入り、気になった都合上、食べないわけにはいかないだろう。

繊細な目の店員に「モモ」とはどんなものか聞いてみた。「あー、えー…」とつまづきながらも教えてくれたのは、「ラム肉を使っている」ということだけだった。私はありがとうと伝えて「モモ」を注文した。

提供には通常の倍以上の時間がかかった。あまり頼む人がいないのだろうし、手の込んだ料理なのかもしれない。

ようやく登場したのは、チーズナンにうんざりし始めたころだった。

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「モモ」はこのような見た目の料理だ。

小籠包みたいだが、汁気はあまりなく、皮も厚めだ。水餃子とシュウマイと小籠包の合いの子、ラム肉団子を包んで蒸しあげたもの、という感じだ。

真ん中のソースはカレーっぽいが、カレーよりもスパイスの風味が強いタレで、舐めると今まで食べたことのない味がした。味というよりも匂いが主体のタレである。

食べる。サイズはそれこそ小籠包くらい。半分に割って頬張る。

ラムのにおいが結構キツかったが、スパイスをつけるとそれがグンと旨味に変わる。

肉感の強い小籠包って感じだが、どう食べてもインドネパール料理の風味で中華の雰囲気はまったくない。

人の好みがかなり分かれる味付けだった。

個人的にはあまり気にいるような食べ物ではなかったが、「スパイシーモモ」ならもっと好きになったかもしれない。

 

この店には他にも聞いたことのない料理がいくつかあって、ネパール流焼きそばみたいなものもあるので、今度はそちらに挑戦してみようと思う。

カレー屋に行ってカレーを食べない選択があってもいい。

最近の広告、難しい

ネット広告は現代の公害の一つと言っても過言ではない。

最近はマシになってきた気がするけど、ちょっと前まではエロ広告が氾濫していてかなり気まずかった。

オンラインストレージで資料を送りたいだけなのに、ものすごい乳の女の子がバルンバルン肉を揺らしながら顔を赤らめている下品な広告がファイルの圧縮ボタンの周囲を取り囲んでいたりして、なにかこういう地獄なのかななんて思ったりしたものだ。

で、間違えて広告をクリックすると、ユーザーの傾向を覚えた間抜けなコンピューターが延々とエロ広告を表示してくるようになるので最悪だった。ラーメンのまとめ記事を読みたいだけなのに、乳を激しく揉みしだく広告を見ないと都内でおすすめの魚介系ラーメンの情報を手に入れられないなんて、どうかしている。

エロサイトを見るわけがない会社のパソコンにおいてもエロ広告が乱発していた。おそらくユーザーを男だと断定したコンピューターが、広範囲の男が好きであろうエロコンテンツを流しとけばいいだろと判断したのだろう。その偏見もすごいし、これってめちゃくちゃ馬鹿にされているのではないか。

エロ広告には困ったものだが、これにはある程度の対策もできる。

表示される広告は日頃見ているサイトやクリックした広告によりある程度操作ができるとされている。ということは、無味乾燥なサイトや広告をあえて選んでクリックしたら、アルゴリズムによってエロ広告は排除され、そうした無味乾燥的広告が表示されやすくなるということだ。

私は土木施工のサイトから土木試験や建設機械の広告をクリックしまくったら、土木系の広告が高頻度で表示されるようになった。土木は無骨で、シンプルで、目に毒なものがなく、全体的に色味もグレーでいいし、健全だ。

 

最近の広告は、やたら長いうえに消し方がよくわからないものが増えてきた。

スマホの画面を一面広告にしたうえに、✖️ボタンがどこにも出てこなくて延々と消費者金融の広告を見せられ続ける。本当にどうしたらいいのかわからない。

ブラウザを戻って再表示すると、また同じ広告に画面を占領される。

仕方がなく広告をクリックして外部サイトに飛び、再度元のサイトに戻って、さらにブラウザも戻ってからサイトを再表示すると、ようやくサイトが見られるようになったりする。

そしてしばらくスクロールするとまた同じことになる。

ほんとうに消し方がわからない、害でしかない。楽しく海で泳いでいたのに、有害な薬品が工場から流れてしまったので泳げない、と注意されたみたいな気持ちになる。

そうなったらもう帰るほかなく、ネット記事においても読むのを諦めてスマホを閉じることになる。

 

こうした広告の公害が嫌で、最近はネット離れしつつある。

まとめサイトとかアフィリエイトサイトは見るのを控え、公式のサイトも広告がひどいところはすぐにブラウザバックして見るのをやめる。時間の無駄だ。

これによってスマホを手放す時間が長くなり、かえって心身に好影響だ。私が広告に踊らされてまで得たい情報なんて、本当のところはほとんど無かったのだということに気付かされた。

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