自明性について(承前)

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080917/p1
にブクマコメントをくれた id:aksumi 氏へ。

"「人間が歴史の中で戦ってきた過程」の「重み」が自明性を支えている" これには全面的に同意./でも一方、「医療」「経営学」では「かわいそう」から問い直すことを要求するのはどうだろう.

全然レベルの違う事柄をごっちゃにしておられますね。福耳氏のエントリに端を発する論争(および論争モドキ)において、医療(医学)なり経営学なりの個別の知見をゼロから問い直せなどと主張する人間はいませんでした。シベリア抑留については何も調べたことがなくてもその自明性を疑わない人間が、南京事件についてのみその自明性を疑問視するというのは、たとえて言うなら「生産性の低い部門から高い部門へとリソースを移した方がよい」という主張を百貨店業界をはじめほとんどの分野については認めるのに、なぜか(=正当な理由を示すことなく)IT業界(でもなんでもいいんですが)については認めない態度、のようなものです。これが第一。もちろんこれは、「ホームレスの人権の自明性」を疑ってみると称する人びとが、日本国憲法の人権擁護規定をしっかり享受していることと類比的です。
第二に、福耳氏は「トリアージ」を介して「例外状態」を持ちこむことによって、「人間が歴史の中で戦ってきた過程」の「重み」で守られた領域から逸脱してしまったのです。反対に、「例外状態」を動員する政治手法についての研究は「人間が歴史の中で戦ってきた過程」の「重み」をそれなりにもっているわけです(HALタンや自称ソーカリアン氏が軽々と無視してみせたものですが)。
第三に、これは他の論者を代弁せずに私についてのみ言いますが、私は経営学者としての福耳氏に経営学というディシプリンが前提していることやらその社会的文脈を意識することを要求したわけです。これはもちろん、あらゆる歴史的出来事について相対主義を適用してみるつもりもないくせに南京大虐殺についてのみゼロから問い直すことを要求する素人への批判とはまったく矛盾しません。歴史学者に対しては、そのディシプリンが前提していることへの反省的な考察を当然要求しうるでしょう。実際、旧日本軍の戦争犯罪に関する研究について言えば、その種の要求は左右両方からいやというほど突きつけられているわけです。そのことと、日本の戦争被害の自明性を疑わない人間が旧日本軍の戦争犯罪についてだけ懐疑精神を発揮してみせることが欺瞞に他ならないこととは、まったく水準が違います。


この種の「自明性」をめぐって空いた口が塞がらないような事例を知りました。
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10137812924.html
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20080917#p1 (追記部分)
あまりにひどいので、上記2エントリを拝読しただけではエントリを書く気になれず、書店までいって確認してきましたが、確かにこれらのエントリで引用されているような箇所がありました(210ページ。222ページ以降にも南京大虐殺への言及あり)。
「自分で調査したわけではないですから」というのをエクスキューズに使うことの意味を東氏はどれだけまともに考えたんでしょうか? 一人の人間が、「自分で調査した」と胸を張って言いうることがらって、一体どれだけあるんでしょうか? 9.11テロについて「自分で調査した」ことがない人間は、9.11陰謀説についても「間違いとは言いきれない」と言わねばならないし、アポロ計画について「自分で調査した」ことがない人間は、「人類の月面着陸は無かったろう論」についても「僕はあったと思っているが、それだって伝聞情報に過ぎない」と言わねばならない……というわけです! 今後、東氏の著作における記述については「自分で調査した」ことなのか「伝聞情報に過ぎない」ことなのかをいちいち問いただす必要がありそうです。
現代史の記述のうち特定のものだけがたえず攻撃に晒されるのは、極めて政治的な現象です。同じことは例えば生物学(進化論を含む)についても言えることでしょう。どれほど博学な人間であっても、この世の中には「自分で調査したわけではない」ことの方が多いのです。にもかかわらず限られたトピックだけが懐疑主義のターゲットとなることの政治性を隠蔽して、それがあたかも知的誠実さであるかのように言い繕うのは、「知識人」として最低の身振りであるとしか言いようがない。