「南京攻略記」

第16師団の歩兵第30旅団長として南京攻略戦に参加した佐々木到一の手記で、集英社の『昭和戦争文学全集 別巻 知られざる記録』に収録されているもの。『南京戦史資料集』には12月9日以降の分だけが収録されているのに対し、こちらは上陸前からの、完全版。以下、印象に残ったところをつまみつまみ。
上陸第一日、農家に宿営したところ「隣家に赤子が遺棄されていると書記が報告」してきたが、「赤ん坊の収容も慈悲はたんに当座に止まるのみであることを思い、予は聞かぬこととした」。しかし「我子を遺棄する無慈悲な支那の母親の心情が腑に落ちぬことである」、と(214ページ)。だが沖縄戦や敗戦直前の旧満州でなにが起こるであろうかをこの時知っていれば、こんなことは書かなかっただろう。


途中、軽装甲車中隊にであって便乗しつつ常熟へと進軍。

道路両側の部落のあいだを三々五々西へ西へと急ぐ便衣の支那人がおびただしく見える、じつに無数の敗残兵である。がこんなものにかまっている時期でない、先方から撃ってこぬかぎり皆目こぼしである。

ところが、その数行あとに。

付近の農家を物色する。すると必ず便衣の敗残兵が潜伏していた。たいていは一時呆然として降伏もしなければ抵抗もしないものである。しかし問答や憐憫はこの場合絶対に禁物である。とっさの間に銃剣か弾丸がすべてを解決する。

219ページ。降伏を呼びかけずに殺害していること、また敗残兵掃討もいわば“手のすいていた時”に行なっているのであって、どこまで軍事的必要性を感じていたのか疑問が残る記述である。


ところどころに軍司令部への不信感が見え隠れする(これは他の資料と符合する)。「マラソン競争なんかいっさいしない」、と。南京攻略戦に参加した部隊の状態もけっこう多様で、例えば第十軍は無血上陸しており上海派遣軍隷下の師団のような大損害を南京攻略戦以前に出していない。逆にあとから参戦したことによる焦りが強く作用していたのではないだろうか。第16師団も遅れての参戦だが、こちらは華北ですでに戦っていたこともあり、佐々木手記も兵の「敵愾心」に言及している。

火災について。

この夜鴨城鎮に宿営、焚火の後始末悪く諸所に火災おこる。このことはかなり喧しく取締ったけれど何としても燃えやすい家屋であるのと、休止すれば焚火が欲しくなる気温だったので命令もなかなか徹底しなかったのである。後方部隊は宿営に困ったことと思う。

231ページ。ここでは放火ではなく失火とされているが、いずれにせよ否定論者が言うように火災の多くを中国軍のせいにするわけにいかない、ということを明らかに示す記述。237ページには「椅子や机や水車」、「穂のついたままの稲」を兵隊が焚火に使っていたことが書かれている。
無錫にて。236ページ。

城内外を視察す、種々雑多な兵隊でゴッタ返し徴発物件を洋車につんで陸続と行くあたりまるで百鬼夜行である。敬礼も不確実、服装もひどいのがある。(…)

もちろんのこと沿道には多くの死体が遺棄されていたのだが(空爆の威力を示す記述もたびたびある)、女性兵士の遺体の衣服が脱がされているのを二度目撃している(228、237ページ)。