「米朝 口まかせ」

朝日新聞夕刊で毎週火曜日に連載されている(関西版だけ?)「米朝 口まかせ」。

兵隊に行った経験のある芸人も随分少のうなってしもた。今では私と喜味こいしさんくらいやないかな。私は大正14(1925)年生まれで昭和20(1945)年に姫路の連隊に歩兵で入りました。

敗戦時20歳でも今年で81歳ということになるから、なるほど現役の芸人さんで兵営生活を送ったことのある人はほとんどいるまい。ただでさえ漫才に押されていた上方落語は、戦争で中堅どころを多数失い危うく滅びるところだった…とは米朝さんがよく書いて(話して)いるところ。なお落語家の書いた従軍記では春風亭柳昇著、『与太郎戦記』(ちくま文庫)などがある。

(…)私は乙種やったが、以前なら不合格やなかったかな。兵隊が足りんから、何でもかんでも取ってたんやろな。こいしさんの兄の夢路いとしさんは私と同い年ですが、彼も乙種やった。

新人物往来社の『日本陸軍歩兵連隊』で姫路の連隊を調べてみてびっくり。1945年になってから編制された連隊が6個、44年に編制された連隊が2個。いずれも本土決戦師団と言うことだろう、みな本土で敗戦を迎えている。敗戦間際に急増師団をたくさんつくったことは知っていたがこれほどとは。他の地域も似たようなもので、古くからある連隊が海外の戦地で敗戦を迎えている(あるいは迎えられなかった…)のに対して新しい連隊は「○○に陣地構築中に終戦」とか「訓練中に終戦」といった具合。

こいしさんは山口県で入隊したんです。南方に派遣される部隊の編成があった時に、内務准尉が「名簿に載っとるが、どうするか」と訊いたそうや。「お国のためですから参ります」と言うたら、「戦況が不利なようだから、私に任すか」と、こいしさんの名前に墨をひいてくれたんやて。その部隊は南方に行く途中の船がやられて、兵隊はみんな死んだそうです。

このようなかたちで命拾いした人もいる。誰かを助けようと思えば誰かを殺さねばならない状況だが、想像するに内務准尉はわずか18歳の青年を死なせるのが忍びなかったのだろう。大井篤の『海上護衛戦』(学研M文庫)は、著者が元海軍の海上護衛総司令部参謀だったこともあって、日本の「船」がどれほど沈められたかという観点からもっぱら書かれているが、戦死した軍人、軍属のうち海没者が占める割合は低くない。なお末尾で触れられているがこいしさんは広島で被爆している。

私も南方に送られるところやったんやけど、入るべき原隊が全滅して連絡がつかん言うて、本土防衛のため内地の連隊に入ることになった。お互い命拾いしてるんです。

「南方」にいた姫路の連隊は歩兵第39連隊(第10師団)か歩兵第81連隊(第38師団)で、それぞれルソン島とブーゲンビル島。歩兵第111連隊(第54師団)がいたビルマを「南方」と表現しているのかもしれないが。前述の『日本陸軍歩兵連隊』の記述をみる限り、敗戦時にもっとも大きな損害を被っていたのは第39師団のようだ。
(そういえば講談社現代新書の『昭和零年』(桐山桂一)にインタビューが収録されていたはず、と思って確認したらやはりそうだった。)