ある町で、人々は子らの水筒に鍵をかけた。
蓋は固く閉ざされ、開くのは選ばれたときだけ。
それは水を護るためだという。盗み飲む者を
避け、いたずらを防ぎ、災いを遠ざける
ためだと。
「これで安心だ。子らは清らかな水を持ち歩き、
誰にも奪われぬ」
大人たちはそう誇った。
彼らは愛の名を唱え、警戒の名を掲げ、
安心という鎧を纏った。
だが私は見た。
彼らは水を護ったつもりで、喉を
縛りつけていたのだ。
水は流れてこそ水であり、解き放たれてこそ
澄む。
閉じ込められた水は、護られるのではなく
腐りゆく。
そして鍵は、子らの掌に渡されたとき、
祝福ではなく負担となる。
それでも人々は言うだろう。
「世は危うい。だからこそ、鍵こそが愛だ」と。
けれど私は知っている。
愛は閉ざすことにはなく、解き放つことにある。
宿る。
そして真に護られるべきは水筒ではなく、