でもその人に出会うまで、私はずっと”好き”という感情がよく分からなかった。
いや、正確に言うと”好き”だと思っていた感情があったけど、それは別に所謂好きなわけじゃなくて、許容範囲内の”好き”なだけだった。
怖い話で、そういう意味だと私はずっと誰かのことを本当の意味で好きになったことがなかったんだと思う。
この間友人とおでんを食べながら、
「許容範囲内の好きって感情があることは理解出来たんだけどさ、それってどんな感じなわけ?」
と指摘されて、私はとっさに「いまこの目の前にある大根と一緒かな」と口にした。
大根!
そう思った。
おでんの中でも好きな具があって、大根が私は好きだ。別になくても生きていけるけど、おでんを食べるなら大根が食べたい。美味しいし。
つまり許容範囲の好きって、私にとってはその程度の感情だったのだ。いやまさか大根と同程度とは思わなかったが。
自分でもびっくりしたけど、妙にしっくりきて、納得すると同時に深いため息が出た。
今、私のことが好きで付き合いたいどころか結婚したいと言ってくれる人がいる。ありがたい話だと思う。
ちなみに悪いところは特にない。
自分が好きになった人が自分を好きになってくれる訳ではない。それははなから諦めている。
そんなわけで、私はその人を好きになれるだろうかとずっと考えていた。別にそれで手を打てばいいのではとそう思った。
だけど、言葉にしてみると、ものすごくエグいというか。怖いなぁと、そう思うのだ。
だって、目の前にいる人、チャットをしている相手への感情の重さが、おでんの具にむけるそれと同程度なのだ。怖過ぎる。感情が薄っぺらすぎて恐怖である。
どうすればこの人を好きになれるんだろうかと考える。好きな人が私にしてくれたことをしてくれたらきっと好きになれると思う。
だけど、この人はそれが出来ない。行動はその人の人生がベースになって現れる、だから、好きな人とバックグラウンドが違うこの人は、その行動が出来ない。
優しいけれど強さはない。優しさを行動に移して、自分が不利益を被ったとしても、私を守る強さはこの人にはない。
でも優しい。別に他人を守る必要なんてないし、それを強要する権利は私にはない。そのままの相手で許容範囲ではあるし、別に変わってほしいとも思わない。そのままの相手で、別にいいと思う。
ただ、その人は私にとっては、おでんのだいこんと同じままなだけ。許容範囲より、深い先には進まない。
変わってほしいと伝える人は優しいと思う。
私はそこまで優しくないから、そっと離れていくだけだ。
そもそもおでんの大根以上に想ってくれない結婚相手なんて、普通に相手が嫌だろうから離れるので正解である。相手のためにもこれがいい。
こんな感じだと一生独身なんだと思うけど、まぁ、でも、おでんの大根程度の感情で誰かと一生暮らすのは難しいと思うのできっとこれでよいのだ。
ちなみに。
そのめっちゃ好きな人とはうまくいきそうにないの?