実はこの世に確率なんてものはありません。この世では、起きることは起きるし、起こらないことは起こりません。
愛する人を亡くしてしまった世界において、愛する人を亡くさなかった世界は起こりません。
ですから、私たちは確率とともに生きることはできません。本当はこの世に確率なんてものはないからです。
この世では、起きることは起きるし、起こらないことは起こらないのです。
愛する人を亡くすことが起きてしまった世界では、愛する人を亡くすことが起こらないことはもう起こらないのです。
でも<この世界>ではないどこかに、<愛する人が未だ元気で生きている世界>というものがあるかもしれません。
想像できるということは、そのような世界はありうるということです。
そのような世界がありうるということは、そのような可能世界とともに生きることができるということです。
私たちは — たとえ<この世界>には絶望していたとしても — <愛する人が未だ元気で生きている世界>において暮らしている彼ら/彼女らに対して、恥ずかしくない生き方をしていくことはこれからもできるのです。<この世界>の中であってさえも、そのように生きることは未だ可能なのです。
この世では、起きることは起きるし、起こらないことは起こりません。
愛する人を亡くしてしまった世界において、愛する人を亡くさなかった世界は起こりません。
それでも、私たちは<愛する人が未だ元気で生きている世界>がどこかに存在することを信じることができます。
そして、私たちはそのような可能世界とともに生きていくことはできるのです。
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規範を宗教ではなく愛する人におくのね 道徳的な人は宗教が愛する人が以前に 生まれ付き道徳なのではないかって気が最近してきている