コミュニケーションの変な理屈をわざとうざったく書く理由が分からない。

会話はを切り出された人間は、話を切り出した人間に対して圧倒的な支配権を持つことになる。
自分は相手の話を聞いて、それに対して相槌をうっていればそれで結構でありながら、その会話を面白いかつまらないか判断しそれを拒絶する権利が発生する。
それは「お前が口をきかなければ、こんなつまらない話をすることもなかったのに」という理屈で保証され、自分は会話の失敗によって傷つくことはない。
一方で話を切り出す人間は、自分から切り出した会話を拒絶され傷つくリスクを受け入れながら、相手の気分を損なわないよう多大な労力を支払うことになる。
ここに対等な人間でありながら、芸を見せる人間とその客というような上下関係が発生する。

無口は卑怯

鬱屈した思いを感じるね。


優しく書くけど、
「会話の前提として、権利や義務を想定する」のは、会話というものの本質からずれてる。そんな風に考えれば、会話の場の重苦しさから人は逃げようとするだろうね。
「先に何かしら労力を払う人が労苦を分担すべきだと主張する場合、オレはお前たちにしてやったのだからとお返しを求めている」んだったりする訳で。まあ、そんなことをすれば、本当に義理とかお付き合いとかの関係にしかならなくなるよね。


無口なのも困りますけど、喋ったんだから色々崇めろ、ってタイプが一番厄介。ええ、そういう風に増田は書いていませんが、実質要求しているのはそーゆーことだよ。「喋る側の評価が不当に低い」ってのは、まあ、「崇めて当然」ぐらいの意味だからね。


こんな場合に、「頑張ってるつもりだけど認められにくいよね」って書いてれば、「いや、君はよくやってるよ」とか言われるだろうに、ワザワザ嫌がられるような書き方するのは、何の被虐趣味なのかなあ。


訳が分からないよ。