ペルー移民開始から百年以上。知られざる戦中・戦後の日系人社会
ペルーへの移民開始は1899年(明治32年)だという。
今からもう100年以上前のことで、だから、初期に移住したいわゆる「一世」の人たちはもうこの世にはいないはずだ。世代を重ねて、ペルーに定着した日本人たち。その中からは、アルベルト・フジモリ大統領も出た。しかし、それ以外の日系人社会、特に日米開戦後の日系人たちの暮らしなんて、何も知らなかった。
古本屋に積まれていた本をなんとなく手にとって読み始めてから、色んな疑問が頭の中を駆け抜けていった。
真っ先に思い出したのは、ペルーの首都リマり旧市街の広場で、ベンチに座っていたとき、隣に座って、たどたどしい日本語で話しかけてきた、杖をついたおじいさんのことだった。
あの人の生きてきた"時代"の話なんだと思うと、…とても切ない。
******
読んだのはこの本。
第一部は、他でもよく見かける、インカ帝国崩壊後、スペイン領~独立~近代までの流れ。
しかしその最後のほうで、労働者不足を補うために中国移民を受け入れた話や、日本からも移民が来て、初期には奴隷同然に使われていた話などが出てくる。
そして第二部が「ペルーの日系社会」という内容になっている。
開戦前、リマには日本人学校が複数あった。土地を借りて農業を営む人、商店を経営する人もいた。しかし会戦後は、アメリカ寄りだったペルーでは日本人は激しく弾圧され、口座を凍結されたり、身柄を拘束されて北米の捕虜収容所に送られる人もいたという。日本人学校は閉鎖され、集会などは禁じられた。ペルーに留まることの出来た人たちも、生活に不自由し差別を受ける苦しい生活をしていたようだ。
そして敗戦後、長い道のりを経ての日系人社会の復活。日本に留学していて戻れなくなっていた日系人の帰還や、日本人学校の再開。日本にいる親戚のために砂糖などの物資を送る人もいたという。
そこにあるのは、ひたすら耐え忍ぶ人々の姿だった。開戦の日、当時ペルーにあった邦字新聞者が最後に発酵したという号外の、以下の言葉が胸をうつ。
ペルーといういわば敵地で、これから弾圧されていくことを知りながら、「以ッテ善良ナル当国(ペルー)ノ一員トシテ正シク挙措行動スル様」と言える人が、どれだけいるだろうか。それに従ってひたすら耐えた邦人移民の人々もすごかった。そうした人々がいたからこそ、戦後、"日本人"への信頼は取り戻せたのだと思う。
しかし、差別を恐れ、目立たぬよう暮らすことを重視した移民一世と違い、二世以降の世代は積極的に政治にも関与し、中からフジモリ大統領のような突出した人物も出てくる。教育熱心だったのは日本と同じで、高度教育を受けた二世以降の世代からは医者や弁護士になる人が出始める。そして、はじめは多かった日本人どうしでの結婚が、次第に減っていくようになった。今のペルーの日系人社会が培っている文化は、日本とペルーの交じり合ったもの、命日に先祖のお墓で手を合わせるけれど自分たちはクリスチャン、というような、複雑なものになっている。
混血が進むにつれて、かつてのような「日本人移民」は姿を消し、「日本人移民の子孫」「日系人」になっていく。土地に馴染むにつれ、日本語は必ずしも重視されなくなっているともいう。
そんな歴史の先に、あの日の出会いがあった。
*****
リマは冬の曇天で、私は一日で新市街と旧市街を見て回るつもりだったのでかなりの駆け足だった。そうして次はどこに行こうかと広場に座って地図を広げていたとき、おじいさんが話しかけてきたのだった。「私、お母さんが沖縄。どこのホテル泊まってるの?」そんなふうに、おじいさんは話しかけてきた。見た目はまるっきり日本人だったが、日本語の発音はたどたどしかった。移民の子孫なのかなーとはおぼろげに思ったが、その時は特に何も考えていなかった。
おじいさんは道を教えてくれようとしたのだが、私は道は分かっているので大丈夫だとかなんとか、そっけない返事をしたような気がする。
見た目の年からして、戦後まもない日本人差別の時代を生きてきただろう人だった。
たぶんあの人は、ただ日本から来た人と日本語で話をしたかっただけなんだと、今になって気がついたところでもう遅い。どうせ予定は未定の個人旅行だったのに、どうしてあの時、すぐに席を立ってしまったのだろう。あと一年半早くこの本に出会って、読んでからあそこに行っていれば、もっと気の利いた話が出来たはずなのに…
一期一会を全く生かせない自分にションボリしつつ、今日もまた出会いを求めて古本屋をあさり、本を読み、またどこかへ旅に出る。
今からもう100年以上前のことで、だから、初期に移住したいわゆる「一世」の人たちはもうこの世にはいないはずだ。世代を重ねて、ペルーに定着した日本人たち。その中からは、アルベルト・フジモリ大統領も出た。しかし、それ以外の日系人社会、特に日米開戦後の日系人たちの暮らしなんて、何も知らなかった。
古本屋に積まれていた本をなんとなく手にとって読み始めてから、色んな疑問が頭の中を駆け抜けていった。
真っ先に思い出したのは、ペルーの首都リマり旧市街の広場で、ベンチに座っていたとき、隣に座って、たどたどしい日本語で話しかけてきた、杖をついたおじいさんのことだった。
あの人の生きてきた"時代"の話なんだと思うと、…とても切ない。
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読んだのはこの本。
第一部は、他でもよく見かける、インカ帝国崩壊後、スペイン領~独立~近代までの流れ。
しかしその最後のほうで、労働者不足を補うために中国移民を受け入れた話や、日本からも移民が来て、初期には奴隷同然に使われていた話などが出てくる。
そして第二部が「ペルーの日系社会」という内容になっている。
開戦前、リマには日本人学校が複数あった。土地を借りて農業を営む人、商店を経営する人もいた。しかし会戦後は、アメリカ寄りだったペルーでは日本人は激しく弾圧され、口座を凍結されたり、身柄を拘束されて北米の捕虜収容所に送られる人もいたという。日本人学校は閉鎖され、集会などは禁じられた。ペルーに留まることの出来た人たちも、生活に不自由し差別を受ける苦しい生活をしていたようだ。
そして敗戦後、長い道のりを経ての日系人社会の復活。日本に留学していて戻れなくなっていた日系人の帰還や、日本人学校の再開。日本にいる親戚のために砂糖などの物資を送る人もいたという。
そこにあるのは、ひたすら耐え忍ぶ人々の姿だった。開戦の日、当時ペルーにあった邦字新聞者が最後に発酵したという号外の、以下の言葉が胸をうつ。
右ノ結果当国ニモ、今後種々余波ヲ及ホシ来ルコトアルヘキモ、日常生活上ニ於テハ当国ノ法規ヲ遵守シ、多数邦人ノ会合ヲ避ケ、国際関係ノ批判ヲ慎ミ、以ッテ善良ナル当国住民ノ一員トシテ正シク挙措行動スル様心掛ケルコト肝要ナリ
ペルーといういわば敵地で、これから弾圧されていくことを知りながら、「以ッテ善良ナル当国(ペルー)ノ一員トシテ正シク挙措行動スル様」と言える人が、どれだけいるだろうか。それに従ってひたすら耐えた邦人移民の人々もすごかった。そうした人々がいたからこそ、戦後、"日本人"への信頼は取り戻せたのだと思う。
しかし、差別を恐れ、目立たぬよう暮らすことを重視した移民一世と違い、二世以降の世代は積極的に政治にも関与し、中からフジモリ大統領のような突出した人物も出てくる。教育熱心だったのは日本と同じで、高度教育を受けた二世以降の世代からは医者や弁護士になる人が出始める。そして、はじめは多かった日本人どうしでの結婚が、次第に減っていくようになった。今のペルーの日系人社会が培っている文化は、日本とペルーの交じり合ったもの、命日に先祖のお墓で手を合わせるけれど自分たちはクリスチャン、というような、複雑なものになっている。
混血が進むにつれて、かつてのような「日本人移民」は姿を消し、「日本人移民の子孫」「日系人」になっていく。土地に馴染むにつれ、日本語は必ずしも重視されなくなっているともいう。
そんな歴史の先に、あの日の出会いがあった。
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リマは冬の曇天で、私は一日で新市街と旧市街を見て回るつもりだったのでかなりの駆け足だった。そうして次はどこに行こうかと広場に座って地図を広げていたとき、おじいさんが話しかけてきたのだった。「私、お母さんが沖縄。どこのホテル泊まってるの?」そんなふうに、おじいさんは話しかけてきた。見た目はまるっきり日本人だったが、日本語の発音はたどたどしかった。移民の子孫なのかなーとはおぼろげに思ったが、その時は特に何も考えていなかった。
おじいさんは道を教えてくれようとしたのだが、私は道は分かっているので大丈夫だとかなんとか、そっけない返事をしたような気がする。
見た目の年からして、戦後まもない日本人差別の時代を生きてきただろう人だった。
たぶんあの人は、ただ日本から来た人と日本語で話をしたかっただけなんだと、今になって気がついたところでもう遅い。どうせ予定は未定の個人旅行だったのに、どうしてあの時、すぐに席を立ってしまったのだろう。あと一年半早くこの本に出会って、読んでからあそこに行っていれば、もっと気の利いた話が出来たはずなのに…
一期一会を全く生かせない自分にションボリしつつ、今日もまた出会いを求めて古本屋をあさり、本を読み、またどこかへ旅に出る。