「私たちは怒ってる」という、時代に取り残される左派ジャーナリストたち
高市早苗総務相の「電波停止」発言に抗議するかたちで、ジャーナリスト有志が記者会見を開いた。呼びかけ人は青木理、大谷昭宏、金平茂紀、岸井成格、田勢康弘、田原総一朗、鳥越俊太郎の7人で、日経の田勢を除く6人が会見に臨んだ。私は、苦痛を伴いながら、この75分以上にも及ぶ会見の動画を視聴したが、いろいろな意味で説得力に欠ける主張だったように思える。
まず、これが彼らの声明文。備忘録としてasahi.comより転載する。
私たちは怒っている
――高市総務大臣の「電波停止」発言は憲法及び放送法の精神に反している
今年の2月8日と9日、高市早苗総務大臣が、国会の衆議院予算委員会において、放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性について言及した。誰が判断するのかについては、同月23日の答弁で「総務大臣が最終的に判断をするということになると存じます」と明言している。
私たちはこの一連の発言に驚き、そして怒っている。そもそも公共放送にあずかる放送局の電波は、国民のものであって、所管する省庁のものではない。所管大臣の「判断」で電波停止などという行政処分が可能であるなどいう認識は、「放送による表現の自由を確保すること」「放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」をうたった放送法(第一条)の精神に著しく反するものである。さらには、放送法にうたわれている「放送による表現の自由」は、憲法21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」の条文によって支えられているものだ。
高市大臣が、処分のよりどころとする放送法第4条の規定は、多くのメディア法学者のあいだでは、放送事業者が自らを律する「倫理規定」とするのが通説である。また、放送法成立当時の経緯を少しでも研究すると、この法律が、戦争時の苦い経験を踏まえた放送番組への政府の干渉の排除、放送の自由独立の確保が強く企図されていたことがわかる。
私たちは、テレビというメディアを通じて、日々のニュースや情報を市民に伝達し、その背景や意味について解説し、自由な議論を展開することによって、国民の「知る権利」に資することをめざしてきた。テレビ放送が開始されてから今年で64年になる。これまでも政治権力とメディアのあいだでは、さまざまな葛藤や介入・干渉があったことを肌身をもって経験してきた。
現在のテレビ報道を取り巻く環境が著しく「息苦しさ」を増していないか。私たち自身もそれがなぜなのかを自らに問い続けている。「外から」の放送への介入・干渉によってもたらされた「息苦しさ」ならば跳ね返すこともできよう。だが、自主規制、忖度、萎縮が放送現場の「内部から」拡がることになっては、危機は一層深刻である。私たちが、今日ここに集い、意思表示をする理由の強い一端もそこにある。
〈呼びかけ人〉(五十音順 2月29日現在)
青木理、大谷昭宏、金平茂紀、岸井成格、田勢康弘、田原総一朗、鳥越俊太郎
彼らの筋書きは、安倍政権によるメディア側への圧力によって、メディアの側が萎縮し、自主規制をしているというものだ。戦後、日本を占領したGHQが日本の既存メディアに、検閲を用いて圧力をかけ、言語空間を支配した構造があった。まさにそういう事態が、今現実に起こっているという主張である。田原は、岸井、国谷、古館など左派言論人の報道番組からの降板の責任を、安倍政権に直接的に求めはしなかったものの、タイミングが合いすぎていると政権の圧力を示唆した。鳥越はもっと遠慮なしで、発言のほとんどを安倍政権批判に使った感がある。
会見では、安倍総理がメディア幹部と頻繁に食事をし、メディアを抱き込もうとしていると忖度していた。実際に会食の場の発言内容の取材などせずに、である。だが、そんなことでメディア側が自主規制に及ぶのなら、批判されるべきは政権側ではなく、骨のないメディア側の情けなさである。会見では、この論法が多く使われていたが、実際には政権批判を自由に行わないメディアに対し、「みんなで声を挙げよう」と尻を叩くような煽りとも取れ、同業者に「蜂起せよ」とアジった、旧き左翼運動の匂いさえうかがえた。
彼らが主張すべきは、政権批判ではなく、同業者への叱咤ではなく、先ずは放送法の改正なのだ。彼らは高市総務相の発言に対し、「所管大臣の「判断」で電波停止などという行政処分が可能であるなどいう認識は放送法の精神に反している」と説く。しかし、その放送法には、免許停止の権限が総務相にあると書かれている。高市大臣は、この法に則って答弁したのであって、放送法がある以上、いつどの総務相でも電波停止の可能性は否定できないのである。遵法という観点からは高市氏は正論を言ったのであり、それを否定するなら論点ずらしであり、ひいては単なる言葉狩りだ。
岸井は、「政治的公平は、一般的な公平・公正とは全く違う」という業界内の解釈を繰り返した。しかし、テレビは自ずと視聴者を巻き込んでいる以上、そんな一方的かつ恣意的な業界論は通用しない。「権力は絶対に腐敗し、暴走する。それをさせてはならないのがジャーナリズムの役割だ」とも言っていたが、岸井の安保法案に関する「メディアとして廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という発言は明らかに放送法違反とも取れる暴走であり、暴走であるがゆえに、メディアを監視する視聴者から批判を浴びたのである。
彼らは終始、政権からの圧力を示唆していたが、その根拠は一つも示されていない。逆にいえば、政権から圧力があるかの如き悪質な印象操作ともとれる。彼らが言う「息苦しさ」が本当にあるとするなら、今まで放送法に違反してきても文句を言われなかった自分たちの報道姿勢が、最近、自由度を失ったことに対する息苦しさではないのか。
こういう、戦後の左傾社会を支えてきた者たちにとって、ネットが普及し、情報の上流にいたはずの自分らの主張が昔通りに受け入れられなくなった現在の言語空間は、確かに「息苦しさ」を感じるのだろう。淘汰されないまでも、この手の者たちは次第にマイノリティになっていく。せいぜい足掻き、批判を浴びればよいのだ。
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