【言葉狩り】差別表現 ブロガーも問われる責任と人権感覚【万歳?】
差別表現 ブロガーも問われる責任と人権感覚
(ITmedia News 2008年06月09日 14時32分 更新)
私の感覚からすると、
出版やテレビ業界は、差別表現について、1960年代から人権団体の激しい糾弾を受けてきた。人権団体が
番組や記事、広告などで差別表現を見つけると、責任者を呼んで糾弾会を開き、根底にある差別意識を厳し
く問いただす。場合によっては謝罪広告を出したり、書籍や雑誌の場合は絶版になるなど、経営的にも痛手
を受けることになる。
という糾弾活動はどう考えても集団恫喝/表現弾圧以外の何者でもありません。
糾弾の経験を経て学習したマスメディアでは、自主規制が進んだ。堀田さんが小学館在籍当時にいた部署も、
自主規制の最前線。差別表現に関するレクチャーを開いたり、編集者からの差別表現に関する問い合わせに
対応し、「なぜその言葉がダメなのか」を、納得するまで説明していたという。
「学習した」のではなく、「萎縮した」あるいは「面倒くさいことにかかわらなくなった」というのが正確なところではないでしょうか。
堀田貢得さんは、このような糾弾活動を当然の所為として受け止め、特に問題意思も持っていないようですが、言葉狩りに違和感を覚えない感性は私には理解不能です。マスメディアの対応は、「恫喝に屈した」、「表現にタブーを作ってしまった」としか思えませんし、糾弾と称する言葉狩りに違和感を覚えない堀田貢得さんの感性には大いに違和感を覚えます。堀田貢得さんのことも、恫喝集団の手先、あるいは、幇間としか思えません。
●ブロガーも糾弾のターゲットに
人権団体は最近、ネットを注視しているという。「人権団体はネットを“難しいメディア”ととらえ、真剣にウォッチ
し、ターゲットにしている。差別表現や問題のある記述は、発見される可能性が高い」
糾弾の対象は企業だけではない。作家の発言や、一般人が公的な場で発言した内容が問題になり、糾弾会が
開かれたこともある。ブロガー個人が糾弾の対象になる可能性は、決してないとは言えない。
と書いているのは、堀田貢得さん一流の「ご親切」なのかも知れませんが・・・。集団恫喝する側のお先棒をかついでいるとしか思えません。
この記事で一番違和感を覚えたのが、以下の2つの箇所です。
第一に、
同書によると差別表現とは「他者の人権を侵害し、人間性を深く傷つけ、苦しめ悲しませるような表現」。誰もが
持つ基本的人権――自由と平等の権利や人間らしく幸福になる権利――を侵害するような表現だ。
表現を結果から見て評価してはいけません。
重要なのは、何故、そのような表現がなされるに至ったのかという経緯と文脈です。
極論すれば、表現の結果として、誰が傷つこうと、悲しもうと、人権が侵害されようと、それ自体は価値中立的な単なる事象に過ぎません。「傷ついた」、「悲しんだ」、「人権が侵害された」という結果に正負の価値が付されるのは、これらの結果を生んだ表現行為がなされるに至った経緯と文脈の検討が済んでからのことです。程度問題というのはありますが。
何にせよ、堀田貢得さんの理屈だと他者を批判、批評する自由は著しく制限されてしまいます。
毒にもならない表現は薬にもならないのです。
第二に、堀田貢得さんが多用する「弱者」という言葉の用法です。
「弱者」とは相対的に決まる概念です。
堀田貢得さんが弱者の例として挙げている、「被差別部落出身の人々や、さまざまな障害を持つ人、在日外国人、アイヌ民族、女性、老人、子ども」等の属性を有する人が、一般的には、「弱者」になりやすい存在であることについては異論はありません。
しかしながら、「弱者」という概念は相対的なものですし、「属性」だけで決まるものでもありません。
例えば、今話題になっている「ワーキングプア」、「ネットカフェ難民」あるいは、「偽装請負」の現場にいる人々の大部分は、日本国籍を持ち、身体障害者ではない比較的若い成年の男性です。属性から見れば、「弱者」ではありませんが、実際には、非常に「弱い」立場にあります。
反面、「被差別部落出身の人々や、さまざまな障害を持つ人、在日外国人、アイヌ民族、女性、老人、子ども」等の属性を有する人であったとしても、団結して人権団体を結成し、「糾弾」行為を通じて、マスコミにも強い影響力を持つようになり、あるいは、行政等から特別の措置、利権とも言える恩恵を受けるようになった場合、果たして、「弱者」と言い切れるかどうかは疑問です。
より強力な存在、例えば、国家権力そのものとの関係では「弱者」と言えるでしょう。
ですが、大部分のブロガーは単なる一市民です。一市民であるブロガーと団体の力、財力と影響力を背景にした「弱者」を比べた場合、前者こそが相対的な「弱者」であることは自明です。
もし、「人権団体」が個人のブロガー相手に「糾弾」をするようなことがあれば、「弱者の表現の自由を蹂躙する強者」との批判を受けるのは、「人権団体」の方ではないでしょうか?
私は決して差別を肯定するものではありません。
ただ、「差別用語」なるものを勝手に指定し、これを使用したことをもって「差別だ」と糾弾する偏狭な「言葉狩り」に反対しているだけです。
何故、「言葉狩り」に反対するのか?簡単です。それは、「言葉狩り」が表現行為を萎縮させ、表現の発展性を阻害する一方で、差別の解消に役に立たないからです。百害あって一利なしと私は考えています。
20080610 New!
(参考過去ログ)
石原知事「ババァ」発言、女性たちの賠償請求棄却