「表現の不自由展」を題材に考える日本国憲法下における文化芸術活動に対する公的な援助のあり方について
愛知県トリエンナーレ「表現の不自由展」の話です。
私の基本的な問題意識は以下のようなものです。
(1)行政が表現内容に対する市民感情を理由に特定の市民に対し一度支給を決めた援助金を撤回するという異なる扱いをして表現のためのコストを増やすことは表現の自由に対する侵害ですし、市民の思想・信条を理由に差別的な取り扱いをすることを肯定するものであり、憲法21条以前に憲法19条思想・良心の自由に反する。
(2)「表現の不自由展」について、税金から助成金を貰い、公共の施設を使うのがおかしい、という意見が公職者も含めて多く見られますが、その考えは、行政が市民の思想・信条を理由に差別的な取り扱いをすることを肯定するものであり、憲法21条以前に憲法19条思想・良心の自由に反する。
(3)ただ、(1)(2)の考え方を徹底すれば、国や公共団体は、一切芸術文化活動に支援をしないことが理想になってしまうが、それは、何か違う。芸術文化活動に対する支援は、アーティストに対する支援ではなく、国民のためになるものである筈だ。日本国憲法は、国民が文化的な生活を送ることを当然視しているが(憲法25条)、一方で、表現行為の内容について政府が口出しをすることを強く否定する構造になっている。
(4)展示作品については未定な段階で助成金を支出する決定をし、事後的に「安全確保や円滑な運営をするために重要な内容があったのに、申告なく進めたことを問題視」するのは助成金を出した側の顔色を伺いながら展示内容を決めろというに等しいものであり、表現の自由に対する過度の干渉であり、日本国憲法とは相容れない。
(5)民間のスポンサーとは違い、文化庁は国の機関なので憲法を尊重して行動する義務がある。憲法は表現の自由を保障している。曖昧な基準で、恣意的な助成金の撤回を認めると表現者全体に萎縮効果が及び、この展示会に限らず、表現の自由は損なわれてしまう。
文化芸術基本法
<前文>
文化芸術を創造し、享受し、文化的な環境の中で生きる喜びを見出すことは、人々の変わらない願いである。また、文化芸術は、人々の創造性をはぐくみ、その表現力を高めるとともに、人々の心のつながりや相互に理解し尊重し合う土壌を提供し、多様性を受け入れることができる心豊かな社会を形成するものであり、世界の平和に寄与するものである。更に、文化芸術は、それ自体が固有の意義と価値を有するとともに、それぞれの国やそれぞれの時代における国民共通のよりどころとして重要な意味を持ち、国際化が進展する中にあって、自己認識の基点となり、文化的な伝統を尊重する心を育てるものである。
我々は、このような文化芸術の役割が今後においても変わることなく、心豊かな活力ある社会の形成にとって極めて重要な意義を持ち続けると確信する。
しかるに、現状をみるに、経済的な豊かさの中にありながら、文化芸術がその役割を果たすことができるような基盤の整備及び環境の形成は十分な状態にあるとはいえない。二十一世紀を迎えた今、文化芸術により生み出される様々な価値を生かして、これまで培われてきた伝統的な文化芸術を継承し、発展させるとともに、独創性のある新たな文化芸術の創造を促進することは、我々に課された緊要な課題となっている。
このような事態に対処して、我が国の文化芸術の振興を図るためには、文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ、文化芸術を国民の身近なものとし、それを尊重し大切にするよう包括的に施策を推進していくことが不可欠である。
ここに、文化芸術に関する施策についての基本理念を明らかにしてその方向を示し、文化芸術に関する施策を総合的かつ計画的に推進するため、この法律を制定する。
<第2条>
第1項 文化芸術に関する施策の推進に当たっては、文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。
<第21条>
国は、広く国民が自主的に文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造する機会の充実を図るため、各地域における文化芸術の公演、展示等への支援、これらに関する情報の提供その他の必要な施策を講ずるものとする。
文化芸術基本法の前文、第21条を見ると、文化や芸術に対する助成の最終的な受益者はアーティストではなく、国民であることがはっきりします。
ちまたでよく見られる。
そもそも文化や芸術に対して国が補助金を出すのは馴染まない。公共性がないかぎり補助金は馴染まない。
という俗説が的外れであることは明らかです。
政府による芸術文化活動支援のあるべき姿については、文化芸術基本法、その趣旨に鑑みて考察すべきでしょう。
文化芸術基本法の前文には「我が国の文化芸術の振興を図るためには、文化芸術の礎たるし表現の自由の重要性を深く認識、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ、文化芸術を国民の身近なものとし、それを尊重し大切にするよう包括的に施策を推進していくことが不可欠である。」と明記されており、日本における政府の文化政策は,政府が芸術文化に対する中立性を保つことを前提としています。
これは、戦時中の文化芸術に対する統制や干渉、検閲を政府が行ったことに対する反省に基づくものであり、政府は文化芸術活動に対しては間接的な支援を行うにとどまり、その内容に干渉することは厳に慎むべきであるという考え方に基づいています。そのためには、手続における公平性と透明性の確保が必要であり、芸術文化支援のための内容や業績の評価を政府外の専門家に判断を委ね、政府は直接には芸術文化の内容には関与しないのが現行法の制度設計です。
愛知県トリエンナーレにおける援助金取消しの問題点は、政府外の専門家の判断に委ねて一度支給を決定した援助金を再度専門家に諮問することもなく行政が取消し、また、受給する側に反論の機会を、手続き上の瑕疵があればそれを訂正する機会を与えないという意味で現行法の想定した「芸術文化支援のための内容や業績の評価を政府外の専門家に判断を委ね、政府は直接には芸術文化の内容には関与しない」という枠組みを逸脱する対応であり、悪しき前例になるだろうというのが、私の考え方です。
文化芸術基本法2条1項において「文化芸術に関する施策の推進に当たっては、文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。」とありますが、この条文の名宛人は政府であり、政府に文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重する義務を課する条文です。
文化芸術基本法の前文にも、政府を名宛人として文化芸術の振興のための政策のための基本的な姿勢として「文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨」とすることが定められ、第1条(目的)にも「文化芸術に関する活動(以下「文化芸術活動」という。)を行う者(文化芸術活動を行う団体を含む。以下同じ。)の自主的な活動の促進を旨として」と明記され、第5条の2にも「文化芸術団体は(中略)自主的かつ主体的に、文化芸術活動の充実を図る」と明記されています。
※主体=チュチェではありません。為念。
また。文化芸術基本法の制定に際し、衆参両院共に「文化芸術活動を行う者の自主性及び創造性を十分に尊重し,その活動内容に不当に干渉することないようにすること。」とその付帯決議において明記しましたが、文化芸術活動へ不当に干渉する主体として想定されているのは政府なので、この付帯決議の名宛人も政府です。
政府は国民の多数決(民意)に基づき形成されるものであり、文化芸術基本法前文、第2条1項も付帯決議も国民の民意に基づいて「文化芸術活動を行う者の自主性及び創造性」が不当に干渉されることを懸念し、その防止を求めるものです。
確かに、文化芸術基本法2条9項には「文化芸術に関する施策の推進に当たっては、文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない。」とあります。
しかしながら、同条文は「文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見」とあり、その他以下は「文化芸術活動を行う者」に準ずる者を想定していると読むのが法文上素直であること、第2条の「基本理念」において「文化芸術に関する施策の推進に当たっては、文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。」が一番最初に書かれていること、文化芸術基本法前文、第1条、第2条1項、第5条の2も付帯決議も文化芸術活動を行う者の自主性を尊重するように定めていること、特定の展示に対する否定的な国民感情が「芸術文化支援のための内容や業績の評価を政府外の専門家に判断を委ね、政府は直接には芸術文化の内容には関与しない」という枠組みを逸脱することを正当化する根拠として認めれば、「文化芸術に関する施策の推進に当たっては、文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。」と第2条の「基本理念」において規定した意味がなくなってしまうこと(民意から文化芸術活動を行う者の自主性を守る方法がなくなる)、文化芸術基本法の解釈の指針となる付帯決議においては、衆参両院共に「文化芸術活動を行う者の自主性及び創造性を十分に尊重し,その活動内容に不当に干渉することないようにすること。」と明記していることに鑑みれば、
特定の展示に対する否定的な国民感情の存在は、政府外の専門家の判断に委ねて一度支給を決定した援助金を再度専門家に諮問することもなく行政が取消し、また、受給する側に反論の機会を、手続き上の瑕疵があればそれを訂正する機会を与えないという意味で現行法の想定した「芸術文化支援のための内容や業績の評価を政府外の専門家に判断を委ね、政府は直接には芸術文化の内容には関与しない」という枠組みを逸脱する対応を正当化する根拠にはならないと解するのが現行の制度と整合的でしょう。
文化芸術基本法の条文も付帯決議も国民の民意に基づいて「文化芸術活動を行う者の自主性及び創造性」が不当に干渉されることを懸念し、その防止を求めるものですが、その懸念は、残念ながら、文化芸術基本法成立(全会一致)から2年後に現実化した様です。
追記;
文化芸術基本法2条9項には「文化芸術に関する施策の推進に当たっては、文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない。」とありますが、国民の意見をどのように認定するのかは、この問題だけではなく、民主制につきものの、永遠の課題です。
「表現の不自由展」が典型例ですが、ある表現に対し否定的な評価をする者は、展示がされている実情、展示について公の援助金が支給されている現状を変えたい訳ですから、現状維持(status quo)を求める者よりも大騒ぎをするのは当然で、その声が大きく聞こえるのは当然です。
逆に、展示を支持する側は、反対派が声を上げるまではン体の声を上げる動機はなく、声を上げ始めるのは、表現を中止させたい側の声が大きくなってからとなるのが自然だし、大騒ぎにすることで表現行為への悪影響を避けたいという思惑も当然あって、基本的には後手、防戦に回る構造があります。
表現に反対する側の声が目立つのは当たり前だし、意見表明の方法や手段について公正さを保つことを目的にしたルールはない以上(脅迫や業務妨害は当然ダメですが)、一部の人が繰り返し意見を表明したり、目立ったりすることもありえるし、SNSで複数のアカウントを使うこともあり得るし、反対の声が多いこと、目立つことを根拠に、文化芸術活動の自由の本質に関わる非常にデリケートな問題について、「その他広く国民の意見」が展示に反対だと軽々に判断して良いかは甚だ疑問です。
The comments to this entry are closed.
Comments