1932年の橋とは? わかりやすく解説

1932年の橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 15:00 UTC 版)

高砂橋 (中川)」の記事における「1932年の橋」の解説

1928年 (昭和3年) の東京府産業道路改良費の一部(橋梁費)によって当時府県道28号浅草松戸線)に架橋された。1932年 (昭和7年) 7月開通長187.3 m、幅員7.5 mで、上部構造鋼鈑単純プレートガーダー橋であったまた、1972年頃に下流側人道橋架設されている。

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1932年の橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 14:50 UTC 版)

糠田橋」の記事における「1932年の橋」の解説

糠田橋開通する以前は、糠田渡しとばれる渡船2艘を有する私設渡船であったまた、渡船場には1804年文化元年)頃までに設立され糠田河岸場併設されていた。この渡船昭和初期荒川改修により廃止された。 昭和初期新河道が開削 され、それにより右岸側に分断され地区を結ぶために河道上にけられた農耕糠田橋起源である。は船を7艘並べ渡り板敷いた舟橋で、旧河道新河道の分岐点上流側である現在の永久橋と同じ場所にけられていた。架設田間宮村区長である河野一郎仕切り架設掛かる費用左岸近傍鎮座する氷川神社より借用して得た1932年昭和7年4月29日開通し渡り初めが行われた。橋番周囲4部落が交代行ない、年3-4回ほど架け替えが行なわれ維持費がかさむため、田間宮村より100円資金援助受けたが後に管理となった

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1932年の橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 01:19 UTC 版)

高尾橋」の記事における「1932年の橋」の解説

1932年昭和7年)に初め架設された。通行有料船頭通行料徴収していた。の上に板を並べたで、渡ると板がぐらついて慣れない怖くて渡れなかったという。また、増水時で渡れない場合臨時渡船運行し流失した際は船頭がそれを直したその後周辺地域管理するようになり、1968年昭和43年)までは地元球根組合収益金充て架け替え増水時における橋板を外す作業などの管理をしていたことから、戦前より通称として球根」と呼ばれた橋板撤去向う岸(右岸)側より一枚ずつ順次行ったが、足元が不安定でもあり、危険の伴う作業であった橋板撤去が間に合わず流されてしまい、船で東京湾入口近くまで回収向かったこともあったという。なお、現在は北本市管理している。 冠水橋なので流失および一部損壊幾度となく繰り返され流失については1954年昭和29年9月台風14号1961年昭和36年10月台風1962年4月復旧)、1965年昭和40年8月台風17号発生した護岸強度不足や、砂利採掘がその被害助長させたとみられている。

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1932年の橋

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巴川橋 (荒川)」の記事における「1932年の橋」の解説

巴川橋開通する以前付近に渡船場などの川を渡る手段がなく、川を渡るためには下流の「渡し」(1752年開設櫻橋本橋中間地点。)か上流の「渡し」(1714年開設。「柏木瀬の渡し」とも。現、柳大橋付近。)まで迂回しなければならなかった。現在の橋けられる以前巴川橋1932年昭和7年9月下流側位置に旧久那橋白川橋似た鋼製吊り橋が、この辺りの荒川では両岸が最も狭まっている場所に生活道路としてけられていた。この吊り橋は『巴川釣り橋』とも呼ばれている白川橋と並ぶ秩父の二大吊り橋著名な景勝地でもあった。長は153.4メートル幅員は2.6メートル、高さは水面から39.5メートルである。主塔両岸段丘崖上に設けられ鉄骨組まれ鋭角四角錐状の形状トラス構造持ちは鋼補剛トラス構造両側耐風索および耐風支索と呼ばれるの横変位捩れ抑制するための鉄索ケーブル)が張られている。橋床木製板敷で、橋床すき間から川面望めた。単径間で側径間有していない。耐風索が設置されているがそれでも風の強い日や大勢の人が橋を渡る面が上下揺れ荒川河底から面までの高さが約40メートルもあることも相まってたいへん怖かったようである。なお、この自殺の名所だったらしく、このから身投げして助かる者はいなかった。開通以来目立った被害はなかったが、1959年昭和34年9月26日台風第15号伊勢湾台風)による強風損壊し橋桁中央より左岸側アメのように折れ曲がり橋台主桁が3メートル下流側にずれた。通行止めになり、秩父土木営所により復旧工事が行なわれた。この復旧以降通行歩行者自転車限定された。この1975年新橋開通した際に撤去された。遺構痕跡残されていない

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1932年の橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 00:13 UTC 版)

高砂橋 (荒川)」の記事における「1932年の橋」の解説

高砂橋開通する以前は「袋の渡し」と呼ばれる(「根古屋渡しもしくは「いっけの渡し」とも呼ばれる1923年大正12年)に開設され私設渡船場対岸結んでいた。渡船場高砂橋のやや下流側にあり、運行対岸町村共同運営で、中野上地区(旧中野上村、後の野上村)と井戸地区(旧井戸村)でそれぞれ五軒が担当した他、荒川増水時は船を陸揚げする作業なども行った。この付近荒川流速速く川下流されないようにするため両岸に太い針金を横に張り、その針金と船を綱で結び付け針金を手で繰ることで対岸とを行き来するという繰船を運行していた。この渡船場1932年昭和7年)の架橋により廃止されている。現在、県営白鳥団地付近に渡船場への道が現存している。なお、この場所は現在の荒川ライン下り終着点でもある。 井戸地区秩父鉄道が通る対岸野上村とを結ぶ無く野上へ渡るには荒川沿いの断崖通り谷底降りて袋の渡し、または上流にある金石渡し(現、金石水管橋)を利用する他なく不便であった磯部らく(1868-1938)は困っている人を見過ごすことができない義侠心の強い女性で、元白村長の夫と共に井戸地区悠々自適余生送っていた。1928年昭和3年近隣野上市街地へ行くために、両岸断崖荒川通行取手間取り難儀している井戸人々を見かねた磯部はその義侠心から、私財投じて井戸野上の間に架橋を行う決心をした。なお、これとは別に1929年昭和4年1月16日白鳥村会において、村民より白鳥村議員高砂架橋請願書提出されていた。 橋の架設難航した着工から4年後の1932年昭和7年2月竣工こぎつけた100メートル幅員2メートル、高さ30メートル木造吊り橋である。橋桁木造ケーブル鉄索製である。架橋者によって「高砂橋」と名付けられ2月11日開通式が挙行された。しかし、その日の夜、無理な資金調達祟り磯部土地と家を差し押さえられ去ってしまった。その偉業強く感銘受けた出身議員やその地域有力者周辺町村動かし、その経済的困窮状況から救済することを決め村民総力挙げて磯部呼び戻した白鳥村橋の架設掛かった工事費磯部支払い村道編入しによって管理することとなった村の人々磯部感謝の気持ち込めてこのを「おらく」と呼び親しまれた。この初代の橋経費維持され多く住民利用され続けた1938年昭和13年9月1日午前6時ごろに台風集中豪雨により発生した大水害により流失した。このとき上流親鼻橋観測され水位は10.6メートルにも及んだ。なお、この年奇しくも磯部他界した年でもあった。現在、「昭和七年二月竣工」と刻まれ橋脚橋台)が遺構として残っている。

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1932年の橋

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戸田橋」の記事における「1932年の橋」の解説

1929年昭和4年着工され総工費1019000円を投じて1932年昭和7年12月24日二代目の約100メートル上流側位置三代目鋼製カンチレバートラス橋として開通した工費三分の二国庫負担残り東京都埼玉県折半した長528.6メートル幅員11.0メートル橋の設計増田淳施工横河橋梁(現、横河ブリッジ)、架設鴻池組である。開通当時はその斬新モダンなデザインから、「日本一斬新美しと言われ観光地にもなった。交通量増大のほか、通行車両大型化重量化に対処しきれなくなり時代にそぐわなくなったことにより1978年役目終え撤去された。遺構としてこの北側親柱戸田市戸田橋親水公園に、南側親柱板橋区小豆沢公園移された。北側親柱には、太平洋戦争大東亜戦争)後に米軍憲兵によって付けられとされる弾痕3つある。また、この親柱2014年2月13日、「戸田市指定有形文化財建造物)」に指定された。

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