1932年の橋
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1928年 (昭和3年) の東京府の産業道路改良費の一部(橋梁費)によって当時の府県道28号(浅草松戸線)に架橋された。橋は1932年 (昭和7年) 7月開通、橋長187.3 m、幅員7.5 mで、上部構造は鋼鈑単純プレートガーダー橋であった。 また、1972年頃に下流側に人道橋が架設されている。
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1932年の橋
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糠田橋が開通する以前は、糠田の渡しとばれる渡船2艘を有する私設の渡船であった。また、渡船場には1804年(文化元年)頃までに設立された糠田河岸場が併設されていた。この渡船は昭和初期の荒川の改修により廃止された。 昭和初期に新河道が開削 され、それにより右岸側に分断された地区を結ぶために河道上に架けられた農耕橋が糠田橋の起源である。橋は船を7艘並べ渡り板を敷いた舟橋で、旧河道と新河道の分岐点上流側である現在の永久橋と同じ場所に架けられていた。架設は田間宮村の区長である河野和一郎が仕切り、架設に掛かる費用は左岸近傍に鎮座する氷川神社より借用して得た。橋は1932年(昭和7年)4月29日開通し、渡り初め式が行われた。橋番は周囲の4部落が交代で行ない、年3-4回ほど架け替えが行なわれ維持費がかさむため、田間宮村より100円の資金援助を受けたが後に村管理となった。
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1932年の橋
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橋は1932年(昭和7年)に初めて架設された。通行は有料で船頭が通行料を徴収していた。桁の上に板を並べた橋で、渡ると板がぐらついて慣れないと怖くて渡れなかったという。また、増水時で橋が渡れない場合は臨時に渡船を運行し、橋が流失した際は船頭がそれを架け直した。その後橋は周辺地域で管理するようになり、1968年(昭和43年)までは地元の球根組合の収益金を充てて架け替えや増水時における橋板を外す作業などの管理をしていたことから、戦前より通称として「球根橋」と呼ばれた。橋板の撤去は向う岸(右岸)側より一枚ずつ順次行ったが、足元が不安定でもあり、危険の伴う作業であった。橋板の撤去が間に合わずに流されてしまい、船で東京湾の入口近くまで回収に向かったこともあったという。なお、現在は北本市が管理している。 冠水橋なので流失および一部損壊が幾度となく繰り返され、流失については1954年(昭和29年)9月の台風14号、1961年(昭和36年)10月の台風(1962年4月復旧)、1965年(昭和40年)8月の台風17号で発生した。護岸の強度不足や、砂利採掘がその被害を助長させたとみられている。
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1932年の橋
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巴川橋が開通する以前は付近に渡船場などの川を渡る手段がなく、川を渡るためには下流の「蛤の渡し」(1752年開設。櫻橋と本橋の中間地点。)か上流の「柳の渡し」(1714年開設。「柏木瀬の渡し」とも。現、柳大橋付近。)まで迂回しなければならなかった。現在の橋が架けられる以前の巴川橋は1932年(昭和7年)9月に下流側の位置に旧久那橋や白川橋に似た鋼製の吊り橋が、この辺りの荒川では両岸が最も狭まっている場所に生活道路として架けられていた。この吊り橋は『巴川の釣り橋』とも呼ばれている白川橋と並ぶ秩父の二大吊り橋で著名な景勝地でもあった。橋長は153.4メートル、幅員は2.6メートル、高さは水面から39.5メートルである。橋の主塔は両岸の段丘崖上に設けられ、鉄骨で組まれた鋭角な四角錐状の形状でトラス構造を持ち、桁は鋼補剛トラス構造で桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鉄索(ケーブル)が張られている。橋床は木製の板敷で、橋床のすき間から川面が望めた。単径間の橋で側径間は有していない。耐風索が設置されているがそれでも風の強い日や大勢の人が橋を渡ると橋面が上下に揺れ、荒川の河底から橋面までの高さが約40メートルもあることも相まってたいへん怖かったようである。なお、この橋は自殺の名所だったらしく、この橋から身投げして助かる者はいなかった。橋は開通以来目立った被害はなかったが、1959年(昭和34年)9月26日に台風第15号(伊勢湾台風)による強風で損壊し、橋桁の中央より左岸側がアメのように折れ曲がり、橋台と主桁が3メートル下流側にずれた。橋は通行止めになり、秩父土木工営所により復旧工事が行なわれた。この復旧以降、橋の通行は歩行者と自転車に限定された。この橋は1975年に新橋が開通した際に撤去された。橋の遺構や痕跡は残されていない。
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1932年の橋
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高砂橋が開通する以前は「袋の渡し」と呼ばれる(「根古屋の渡し」もしくは「いっけの渡し」とも呼ばれる)1923年(大正12年)に開設された私設の渡船場で対岸を結んでいた。渡船場は高砂橋のやや下流側にあり、運行は対岸町村と共同運営で、中野上地区(旧中野上村、後の野上村)と井戸地区(旧井戸村)でそれぞれ五軒が担当した他、荒川の増水時は船を陸揚げする作業なども行った。この付近の荒川は流速が速く、川下に流されないようにするため両岸に太い針金を横に張り、その針金と船を綱で結び付け、針金を手で繰ることで対岸とを行き来するという繰船を運行していた。この渡船場は1932年(昭和7年)の橋の架橋により廃止されている。現在、県営白鳥団地付近に渡船場への道が現存している。なお、この場所は現在の荒川ライン下りの終着点でもある。 井戸地区は秩父鉄道が通る対岸の野上村とを結ぶ橋は無く、野上へ渡るには荒川沿いの断崖を通り谷底に降りて袋の渡し、または上流にある金石の渡し(現、金石水管橋)を利用する他なく不便であった。磯部らく(1868-1938)は困っている人を見過ごすことができない義侠心の強い女性で、元白鳥村長の夫と共に、井戸地区で悠々自適な余生を送っていた。1928年(昭和3年)近隣の野上の市街地へ行くために、両岸が断崖の荒川で通行に取手間取り難儀している井戸の人々を見かねた磯部はその義侠心から、私財を投じて井戸と野上の間に架橋を行う決心をした。なお、これとは別に1929年(昭和4年)1月16日に白鳥村会において、村民より白鳥村議員に高砂架橋の請願書が提出されていた。 橋の架設は難航したが着工から4年後の1932年(昭和7年)2月に橋の竣工にこぎつけた。橋長100メートル、幅員2メートル、高さ30メートルの木造吊り橋である。橋桁は木造でケーブルは鉄索製である。橋は架橋者によって「高砂橋」と名付けられ、2月11日に開通式が挙行された。しかし、その日の夜、無理な資金調達が祟り、磯部は土地と家を差し押さえられ村を去ってしまった。その偉業に強く感銘を受けた村出身の議員やその地域の有力者は周辺町村を動かし、その経済的困窮な状況から救済することを決め、村民が総力を挙げて磯部を呼び戻した。白鳥村は橋の架設に掛かった工事費を磯部に支払い、橋を村道に編入して村によって管理することとなった。村の人々は磯部に感謝の気持ちを込めてこの橋を「おらく橋」と呼び親しまれた。この初代の橋は村の経費で維持され、多くの住民に利用され続けたが1938年(昭和13年)9月1日午前6時ごろに台風の集中豪雨により発生した大水害により流失した。このとき上流の親鼻橋で観測された水位は10.6メートルにも及んだ。なお、この年は奇しくも磯部が他界した年でもあった。現在、「昭和七年二月竣工」と刻まれた橋脚(橋台)が遺構として残っている。
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1932年の橋
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1929年(昭和4年)着工され、総工費101万9000円を投じて1932年(昭和7年)12月24日に二代目の橋の約100メートル上流側の位置に三代目の橋が鋼製のカンチレバートラス橋として開通した。工費の三分の二は国庫負担で残りは東京都と埼玉県が折半した。橋長528.6メートル、幅員11.0メートル。橋の設計は増田淳、橋の施工は横河橋梁(現、横河ブリッジ)、架設は鴻池組である。開通当時はその斬新でモダンなデザインから、「日本一斬新で美しい橋」と言われ、観光地にもなった。交通量の増大のほか、通行車両の大型化や重量化に対処しきれなくなり、時代にそぐわなくなったことにより1978年に役目を終え、撤去された。遺構としてこの橋の北側の親柱が戸田市の戸田橋親水公園に、南側の親柱が板橋区の小豆沢公園に移された。北側の親柱には、太平洋戦争(大東亜戦争)後に米軍憲兵によって付けられたとされる弾痕が3つある。また、この親柱は2014年2月13日、「戸田市指定有形文化財(建造物)」に指定された。
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