顕性院
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顕性院(けんしょういん、慶長9年(1604年) - 寛永12年6月11日(1635年7月24日))は、江戸時代初期の女性。真田信繁の五女で、出羽亀田藩第2代藩主岩城宣隆の側室、のちに継室。名は、直[1][2]、なほ[3]、あるいは田(でん)[1][4][2]。御田姫(おでんひめ)[3]、御田の方(おでんのかた)[5]とも呼ばれる。顕性院は院号。
注釈
- ^ 詳しくは、真田信繁#系譜を参照。
- ^ 宣隆(宣家)の初めの正室・珪台院(多賀谷重経の娘)は、この際に離縁となったと思われるが、多賀谷氏が改易されたこともあって実家方に帰されず、宣隆らとともに亀田に移り、顕性院より長く生きて慶安2年(1649年)に亀田で没している。
出典
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