間接統治論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 17:04 UTC 版)
「フレデリック・ルガード」の記事における「間接統治論」の解説
1922年の『英領熱帯アフリカの二重統治論』(The Dual Mandate in British Tropical Africa) はルガードの間接統治論の著作である。ここで彼はイギリスのアフリカ植民地でこの手法が採用されねばならないかを説いた。正当化の中にはキリスト教の布教や野蛮の終焉なども含まれた。国家の出資する植民地化は宣教師や現地首長、住民をその他の国外勢力から保護するとした。ルガードはイギリスがドイツ、ポルトガル、フランスより先に資源や領土を支配することが肝要だとした。彼はゴムなどの資源の輸出や住民への課税で得られる膨大な利益に気付いていた。また奴隷制はイギリスで1834年に廃止されていたものの、安い労働力や資源も公共事業による工業化の欠かせない要素になるとした。また植民地化は時代の流れであり、超大国の権力を保ち弱体化を避けるために植民地を持つべきだとした。 ルガードは黒人は白人と大きく異なるとして現地人による間接支配を好んだ。ルガードは習慣や言語が同じ現地人に植民地経営をさせた方が反乱が防げると考え、この手法は他のヨーロッパの植民地支配者にも採用された。 1922年から1936年にルガードは国際連盟の委任統治委員会のイギリス代表に選ばれた。1926年にはロンドンに国際アフリカ言語文化研究所(International African Institute)が設立され、ルガードも議決機関のメンバーに選ばれた。 1928年4月25日ルガードはアビンジャーのルガード男爵に叙され貴族院に列した。ただし、フローラ夫人(「ナイジェリア」の命名者である)に翌1929年に先立たれ、子女にはついに恵まれなかったため、ルガード男爵の爵位は1945年の彼の死と共に断絶した。
※この「間接統治論」の解説は、「フレデリック・ルガード」の解説の一部です。
「間接統治論」を含む「フレデリック・ルガード」の記事については、「フレデリック・ルガード」の概要を参照ください。
- 間接統治論のページへのリンク