さけ‐ずき【酒好き】
酒好き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 14:02 UTC 版)
「リッチモンド・K・ターナー」の記事における「酒好き」の解説
ターナーの酒好きについては、遅くとも「サラトガ」副長時代には認知されていたが、海軍大学校時代にはボロを見せていなかった。ひどくなったのはガダルカナル戦のころからで、あらゆる戦闘計画を長時間にわたってチェックし、かつ平静さを保つのに酒の力が必要になっていった。ターナー自身、常に疲れきっていたと回想していたが、実際、前述の硫黄島の戦い前のターナーはまさに病人で、背中に痛みを覚えて体の抵抗力は弱まっており、肺炎の危険性すらあった。酒浸りの度合いはエスカレートし、これは酒浸りによる醜態をしばしば晒すことも意味していた。テニアンの戦い後の国旗掲揚式や、沖縄戦から離れてニミッツやスプルーアンスと会食したときは「出来上がった状態」で現れる始末だった。 酒浸りによる醜態の極めつけは戦争終結後に起こった。1945年9月2日の降伏文書調印式のあと、式典に出席していたターナーは、ニミッツが乗艦していたため臨時の太平洋艦隊の旗艦になっていた戦艦「サウスダコタ」 (USS South Dakota, BB-57) の士官室で「出来上がった状態」になっていた。そこにやってきた太平洋艦隊主任参謀エドウィン・レイトン大佐(アナポリス1924年組) が前述の真珠湾攻撃の件の話を切り出したところ癇に障ったのか、ターナーはいきなりレイトンの首を締め上げに掛かった。居合わせた「サウスダコタ」艦長が間に入らなかったら、ターナーは(その気が本当にあったとして)レイトンを絞め殺すところだった。 退役後も酒が手放せなかったが、重度の酒浸りかつ心身を相当にすり減らしていたものの、ミッチャーやジョン・S・マケイン・シニア(アナポリス1906年組)のように、戦争終結から間を置かずして急死するようなこともなく、75歳まで生きたのもまた事実である。谷光は、その理由を長生きした者や頑健な身体を持つ者が多かったターナーの父系に求めている。
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