郷里と豪族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:46 UTC 版)
周代の爵位は公・侯・伯・子・男の五等爵であり、これを持つのは支配階級のみであったが、秦漢の爵位は二十等爵で、一般の庶民に至るまでほぼ全ての人々がこの枠組みの中に入っていた。この制度下では、折につけて爵位が一斉に上がる出来事(民爵賜与)があり、概して、その機会を多く経験した年長者ほど高い爵位を持つことになった。庶民たちの属する共同体にとって、この爵位に沿った人間関係と秩序の形成は朝廷に公認されたもの、言い換えれば、共同体の外からもたらされた他律的なものということができる。また、周代の地方制度は封建制であったが、秦漢では中央集権的な郡県制、すなわち中央から派遣された勅任官たちを郡県の支配者層とする他律的な構造であり、血縁に基づく旧来の氏族制は崩壊した。 しかし、郡県の内部構造である郷里まで分け入ると、共同体の自律的な構造は、豪族を中心とした秩序形成という形で存続ないし置き替わっていた。前漢の中期以降、郡県の属吏は豪族とその一族が占めるケースが急増したが、この人事の規範となったのは共同体の自律的秩序から生み出される輿論、いわゆる郷論である。郡県の支配者層といえど、自律的秩序に逆らう人事を行った場合は軋轢が生じて、酷い場合は反乱が起こり、いわば権力のチェック機能のように作用した。実際に、王莽の専制に対抗する光武帝を軍事的に支えたのは郡県の属吏だった豪族らであり、後漢末期だと宦官が人事に介入したことに豪族が反発して党錮の禁に至っている。つまり、制度上は人事の権限が集中しているはずの太守らも、郷論に支持された豪族の影響は無視できなかった。極端な例では冠蓋、冠冕と言われる豪族の家系が郡の掾史を代々務め、それらの番付まであった。 中央側の対応も豪族の台頭と呼応しており、前漢中期の宣帝の時代から官吏の爵位を上げる命令(吏爵賜与)が増加し、豪族の中でも特に有力な大姓豪族は郷挙里選を経て中央集権体制へと組み込まれていった。また、豪族は遊侠と繋がりを持ったり武装領主となるのが一般的であるが、特に孝廉の実施による儒学の流行は、それらの一部を変質させて、気節の士・清流豪族と言われる知識人階級を生み出し、後の六朝文化へと繋がることとなった。
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