遼河文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/13 03:36 UTC 版)
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遼河文明(りょうがぶんめい)は、中国東北部の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6,200年頃から存在したと考えられている。
発見
1908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したことから始まる。
文化
大規模な竪穴建物が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇といった神殿が発見され、先史時代の「国」があったのではないかと考えられている[1]。
興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されており、櫛目文が施された平底円筒土器、けつ状耳飾りなどが出土している[2]。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。夏家店上層文化からは最古の遼寧式銅剣が発見されている。
このように黄河文明や長江文明とは異なる文明でありながら、後の古代中国文明に大きな影響を与えたと考えられることから、注目され研究されている。
2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang(楊小平)、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4,000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[3]。このため、約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住した[4]。
遼河文明遺跡における6,500年前から3,600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析では、シベリア,沿海州で高頻度に観察されるハプログループNが60%以上の高頻度で認められる[5]ほか、ハプログループNの担い手であるフィン・ウゴル系民族と関連する櫛目文土器の最古のものが遼河地域の興隆窪文化(紀元前6,200年 - 紀元前5,400年)の遺跡で発見されている[6]後の夏家店上層文化の時代になると、漢民族と密接な関係のあるハプログループO2やモンゴル人などを含むハプログループC2へ交代したようである[5]。
後続文化への影響
2021年、ロベーツらによって、言語学・考古学・遺伝学的分析により、新石器時代初期の西遼河地域からトランスユーラシア言語(日本語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、チュルク語族)の祖語の話者がキビ農業を通じて拡散したという説が立てられ、ネイチャー誌に掲載された[7](農耕/言語拡散仮説)。本研究によると、新石器時代の朝鮮半島南部の人類は紅山文化の影響が強く、青銅器時代以降の日本列島(九州・宮古島)の人類には夏家店上層文化の影響が強いという。
この説は、これまでのトランスユーラシア言語が4,000年前に東部ステップ地帯の遊牧民により拡散されたという説を否定するものであり、今後の研究の進展が待たれる。
遼河文明一覧
- 興隆窪文化(こうりゅうわぶんか) 紀元前6,200年頃-紀元前5,400年頃
- 新楽文化(しんらくぶんか) 紀元前5,200年頃-紀元前4,800年頃
- 趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか) 紀元前5,400年頃-紀元前4,500年頃
- 紅山文化(こうさんぶんか) 紀元前4,700年頃-紀元前2,900年頃
- 夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか) 紀元前2,000年頃-紀元前1,500年頃
- 夏家店上層文化(かかてんじょうそうぶんか) 紀元前1,100年頃-紀元前500年頃
脚注
- ^ University of Pittsburgh, Pennsylvania: Regional Lifeways and Cultural Remains in the Northern Corridor: Chifeng International Collaborative Archaeological Research Project. Cited references: Drennan 1995; and Earle 1987, 1997.
- ^ 中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】「東北アジアにおける先史文化の交流」 王 巍(中国社会科学院考古研究所・副所長)
- ^ Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China 合衆国科学アカデミー紀要
- ^ New Thoughts on the Impact of Climate Change in Neolithic China Archaeology誌解説記事
- ^ a b Yinqiu Cui, Hongjie Li, Chao Ning, Ye Zhang, Lu Chen, Xin Zhao, Erika Hagelberg and Hui Zhou (2013)"Y Chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. " BMC 13:216
- ^ “東北アジアにおける先史文化の交流”. web.archive.org. 2024年1月7日閲覧。
- ^ Robbeets, Martine; Bouckaert, Remco; Conte, Matthew; Savelyev, Alexander; Li, Tao; An, Deog-Im; Shinoda, Ken-ichi; Cui, Yinqiu et al. (2021-11). “Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages” (英語). Nature 599 (7886): 616–621. doi:10.1038/s41586-021-04108-8. ISSN 1476-4687 .
関連事項
遼河文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 03:26 UTC 版)
詳細は「遼河文明」を参照 すでに長江流域から新石器時代の独自の文化(長江文明)が発見されて黄河文明中心の中国史に一石が投じられているが、黄河から北へ離れた東北(満州)の遼河流域の地からも中国の精神文化へ繋がる文明が発見されたことは大きな反響を呼んだ。この後も、遼河流域から興隆窪文化などの新石器文化が発見されている。遼河流域の文化は黄河流域の文化などとともに中華文明へと合流したという評価がなされており、そのつながりを探る研究もなされている。 2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている。 韓国の研究家は満州にあった扶余が高句麗や百済などを建国したという伝承に紅山文化を関連付けている。「古朝鮮」文明と「遼河文明」を同じと考え、古朝鮮が遼河文明を通じ中国文明を築いたという説も唱えられている。海外の史観では、紅山文化の土器が中国大陸の物より韓国の櫛文土器ともっと似ているという主張もある、2007年に江原道高城郡と全羅南道麗水市には紅山文化の玉石と同じ形の玉石が発見されており、紀元前6000年のものである。 韓国の在野史学(朝鮮語版)(民間のアマチュア歴史愛好家)には、紅山文化と古朝鮮とを関連付ける見解があるが、講壇史学界(大学教員などのアカデミズム)では否定的な見解が主流であり、朝鮮古代史学界の権威である盧泰敦(朝鮮語版)(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)や盧泰敦の弟子の宋鎬晸(朝鮮語: 송호정、韓国教員大学)なども否定している。韓国の古代史学界は、中国東北部の青銅器時代の典型的遺物である琵琶形銅剣とシャムシールと美松里式土器の使用開始年代は紀元前10世紀であり、朝鮮半島にはそれ以降に伝播した、つまり、国家が形成されるには青銅器時代が必要なことから古朝鮮の建国・出現は早くとも紀元前9世紀以降に比定しており、紀元前30世紀頃に消滅した紅山文化と古朝鮮との時間的隔たりがあまりにも大きいため、紅山文化と古朝鮮との関係性を見出し難いためである。 なお紅山文化時代の古人骨のY染色体ハプログループ分析によると、ウラル系諸族やヤクート人に高頻度で観察されるハプログループNが67%の高頻度で観察され、遼河文明の担い手がウラル語族の言語を話していた可能性も考えられる。
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