赤堀氏の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 23:19 UTC 版)
赤堀氏の由来について述べると、平将門を討伐した俵藤太藤原秀郷の五男千常の10世足利又太郎忠綱は治承の役で宇治川で武功を上げて下野国赤堀荘園を与え有られた。養和元年(1181年)に常陸国の志田義弘と平氏再興を企て小山朝政に滅ばされて、甥の田原豊前守景綱が信濃国に移り佐野小次郎と称した。景綱の8世の孫で藤原秀郷の末裔の田原孫太郎景信は室町幕府の将軍足利義満の治世の応永年間(1394年から1428年)に下野国の赤堀荘園から栗原の土地に移住して築城して地名を赤堀と命名して赤堀氏を呼称するようになった。景信は肥前守を名乗り、二男秀宗に赤堀家を継がせて、長男の盛宗を羽津に、三男忠秀を浜田においてそれぞれ息子3人に城を気付かせて赤堀三家として四日市地方を支配するようになった。この赤堀景信の三男の忠秀が、文明2年(1470年)に四日市地域の浜田の土地に城を築城して浜田殿を呼称した。歴史学の書物の三国地誌によると赤堀氏は伊勢国の国司の北畠氏に所属し北畠家配下の一族が赤堀氏であったとの記述がある。戦国時代に赤堀氏は神戸氏と同盟を結び、永禄2年(1559年)に長野家の一族郎党の工藤氏が雲林院、草生氏、分部氏、乙部氏、三宅氏、中尾氏など中勢の諸豪族を率いて、浜田城及び赤堀城の四日市地域の赤堀三家を攻撃して塩浜から上陸して四日市攻撃作戦を計画した。塩浜の伊勢湾の海岸付近で赤堀家と浜田家の赤堀二家と神戸氏の救援の援軍で長野工藤氏を撃破した。
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