貴州統治の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/18 00:57 UTC 版)
しかし王家烈は毛光翔の指導を不満に思い、次第にその地位を伺うようになった。1930年(民国19年)、王は湘黔辺区剿匪司令に任ぜられ、中国共産党(紅軍)討伐に従事し、これにより蒋介石や湖南省政府主席何鍵から軍事費を受け取っている。蒋の側でも、毛の不即不離の姿勢に不信感を抱いたため、王を支持してこれに更なる支援を与えるようになった。1932年(民国21年)、王はクーデターを実行して貴陽へ進軍する。同年3月、情勢不利と見た毛は下野を宣言し、王が後任の省政府主席となった。 それでも毛光翔は、王家烈のクーデターに不満を抱いていた序列第4位の猶国才ら他の桐梓派指揮官たちと結んで、王への反撃を開始する。12月、今度は王が下野に追い込まれ、猶が代理ではあるが後任の省政府主席となる。しかし、毛・猶らは各指揮官同士で主導権争いを展開し、まとまりがなかった。王はそこを衝く形で逆襲を開始し、翌年4月、猶から省政府主席の地位を奪回している。しかし、王は貴州省を統治する意欲に乏しく、終日酒に溺れ政務を省みようとしなかった。そのため、夫人の万淑芬が代りに政務に携わることになり、万氏一族の専横を招くことになってしまう。貪官汚吏の横行にも王は何も手を打たず、省内各階層の不満は日に日に高まっていくばかりであった。
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