西陵の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/16 17:40 UTC 版)
西陵の戦い | |
---|---|
戦争:西陵の戦い | |
年月日:鳳凰元年/泰始8年9月 - 12月 (272年10月 - 273年2月) | |
場所:西陵(現在の湖北省宜昌市夷陵区) | |
結果:呉軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
呉 | 晋 |
指導者・指揮官 | |
陸抗 | 歩闡 † 羊祜 |
戦力 | |
3万 | 8万 |
損害 | |
不詳 | 不詳 |
西陵の戦い(せいりょうのたたかい)は、中国三国時代の272年に、呉と晋の間で起きた戦い。
事前の経緯
272年8月、呉帝孫晧は西陵督であった歩闡を繞帳督に任じ武昌に戻るよう命じた。父や兄を継いで西陵を守ってきた歩闡は、突然の召還命令を不審に思い、朝廷で讒言されたのではないかと大いに疑った[1]。孫晧は気に入らない臣下を理由をつけて誅殺することが多くあり、かねてより暴君として恐れられていた。ただし、このとき孫晧に歩闡を誅殺する意図があったかどうかは文献上では不明である。
9月、身の危険を感じた歩闡は晋に使者を出し、西陵城ごと降伏する旨を申し入れ、兄の歩協の子の歩璣と歩璿を人質として洛陽に送った。歩闡自身は配下の将兵とともに西陵城に籠った。晋帝司馬炎は歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・侍中に任じ、三公と同等である儀同三司の特権を与えた。さらに、交州牧を兼任させ、宜都公に封じた。また、人質の親族にも官位・爵位を与えて厚遇した[2]。
楽郷都督の陸抗は歩闡反乱の報せを聞くと、即日部隊を分け、配下の左奕・吾彦・蔡貢らに命じて西陵城へ急行させた[3]。
都督荊州諸軍事羊祜は司馬炎の命を受け、歩闡救援のため呉へ進軍した。羊祜は荊州刺史の楊肇に陸路で西陵へ向かわせると共に、益州からも巴東監軍の徐胤が指揮を執る水軍を向かわせた。また、自らは陽動の為襄陽より南下し、呉の拠点の江陵へと進軍した。
戦いの経緯
陸抗は西陵に到達した諸軍へ、赤渓から故市の間に二重の包囲陣を築かせた。 この包囲陣は内には歩闡を封じ込め、外には晋軍の来襲に備えるというものであった。この工事は昼夜兼行で行われ、士卒は大いに疲弊した。 諸将はみな「三軍に勢いがある内に城を攻め、晋軍が襲来する前に落とすべきです。なぜわざわざこのようなことをして士卒を疲弊させるのですか」と問うと、 陸抗は「西陵城は堅固であり食糧も多い。城の防備は私が以前、西陵督だった時に築いたものであり、構造は熟知している。急行してもすぐに落とせるものではない。その間に晋軍が現れたら前後を挟撃を受けることになる。その時に備えをしていなくてどうやって防ぐというのか」と返した[4]。しかし、諸将は納得せず、特に宜都太守の雷譚は強く請願したため、陸抗は一度だけ攻撃を許可した。その結果、何の成果も上げられなかったので、諸将は陸抗の命に従った[5]。
歩闡は晋軍に救援を要請すると共に、私財を投げ打って蛮族にも協力を要請した。
羊祜が5万の兵を率いて江陵に侵攻する様子を見せると、楽郷にいた陸抗は羊祜にかまわず西陵へ向かった。陸抗の部下は楽郷に留まって江陵に備えるよう勧めたが、陸抗は「江陵は防備が固く、兵もしっかりと備わっている。もし落ちたとしても、地勢的に見て敵が維持し続けるのは困難だ。 だが西陵を奪われれば、長江南岸諸山の蛮族にも動揺を与える。そうなったときの難事を思えば、江陵を棄ててでも西陵にあたるべきだ」と述べ、軍の指揮を執り西陵に向かった[6]。
江陵は平坦な地にあり、進軍が容易であった。陸抗は江陵督の張咸に命じ、城の周辺の水路を堰き止めさせ、江陵城に通じる北東の平地を水没させることで敵襲と味方の離反を同時に防がせた。 そのため、羊祜は江陵を攻めるにあたって、船を用いて兵糧を輸送しようとしたが、途中で堰が切られて水が引いてしまうことを恐れ、敢えて自ら堰を切って歩兵を進軍させるという虚報を流した。陸抗はこの情報が羊祜の策だと看破し、諸将の反対を押し切り江陵の守将に命じて、堤を切って水を退かせた。羊祜は当陽まで進軍したところで堰が切られたと聞き、改めて陸路で輸送する車を用意しなければならず、輸送に大幅な損害を出した[7]。
11月、陸抗は張咸に江陵城を死守させる一方、公安督の孫遵に長江南岸を守備させ、羊祜が長江を渡って南に進軍するのを阻止させた。晋の巴東監軍の徐胤が指揮を執る水軍も建平に攻め寄せており、陸抗は水軍督の留慮・鎮西将軍の朱琬を派遣しこれを迎え撃たせた。西陵にも楊肇軍が到達すると、陸抗は自ら包囲陣に拠ってこれに対峙した。このとき、呉の将軍朱喬での営都督兪賛が裏切り、楊肇の軍に投降した。 陸抗は「兪賛は軍中に長くおり、その内情に詳しい。私は以前より訓練不足の異民族部隊を憂慮している。もし敵が包囲陣を破ろうとするなら、まず異民族部隊を狙うだろう」と述べ、密かに夜のうちに異民族の兵の守備する箇所を古参の呉の精鋭兵と交替させた。翌日、想定通り楊肇軍が異民族部隊の拠点を突いて攻めてくると、陸抗は他の部隊も動員し雨のように矢石を降らせ、大損害を与えた[8]。
12月、戦況が膠着して万策尽き果てた楊肇は西陵攻略を断念し、夜闇に紛れて退却を開始した。陸抗はこれを追撃しようと考えたが、背後には西陵城の歩闡が呉軍の隙を窺っており、大きな兵力は割けなかった。そのため、兵を揃えて鼓を打ち鳴らし、あたかも追撃に出るかのように見せかけた。楊肇軍の兵は混乱し、装備を脱ぎ捨て、我先に逃亡しはじめた。敵部隊が崩れたところで、改めて陸抗は少数の兵を用い追撃をかけ、楊肇軍を大いに打ち破った。楊肇軍の大敗を聞いた羊祜はこれ以上の攻勢を断念し、救援軍を全面的に撤退させた。呉軍の捕虜になった者は合わせて数万に及んだ。 陸抗は晋軍が完全に撤退したのを見届けてから、西陵城に総攻撃をかけた。そしてついに西陵城を陥落させ、歩闡らを捕縛した[9]。
戦後
陸抗は、歩闡とその一族及び幹部級の武将や軍官は処刑したが、その他の数万に上る将卒や下級兵卒は赦免した。これにより呉における歩闡の一族は絶えることとなったが、歩闡が降伏した際に人質として晋に送られていた甥の歩璿が歩家を継いだ。
反乱を鎮圧した陸抗は、西陵城を修復した後、楽郷に帰還した。大功を立てたにもかかわらず、それを一切誇ることが無かったため、将士は以前にも増して陸抗を敬ったという。陸抗は今回の功績により任地において大司馬に任じられ荊州刺史の職を授けられた(『三国志演義』では後に孫晧に疑われて降格されたとされているが、史実では無い)。
晋では、敗戦の責により羊祜が平南将軍に降格されるが、変わらず荊州軍の総司令官のままであった。楊肇は免官されて故郷の地に帰り、2年後に病没した。
参戦人物
参考文献
- 『資治通鑑』巻79
- 『三国志』巻58 陸抗伝
出典
- ^ 『資治通鑑』:八月,呉主徴昭武将軍、西陵督歩闡。闡世在西陵,猝被徴,自以失職,且懼有讒。
- ^ 『資治通鑑』:九月,據城來降,遣兄子璣、璿詣洛陽為任。詔以闡為都督西陵諸軍事、衛将軍、開府儀同三司、侍中,領交州牧,封宜都公。
- ^ 『三国志』陸抗伝:抗聞之,日部分諸軍,令将軍左奕、吾彦、蔡貢等径赴西陵。
- ^ 『三国志』陸抗伝:勅軍営更築厳圍,自赤渓至故市,内以圍闡,外以禦寇,晝夜催切,如敵以至,衆甚苦之。諸将咸諫曰:「今及三軍之鋭,亟以攻闡,比晋救至,闡必可抜。何事於圍,而以弊士民之力乎?」抗曰:「此城處勢既固,糧穀又足,且所繕修備禦之具,皆抗所宿規。今反身攻之,既非可卒克,且北救必至,至而無備,表裏受難,何以禦之?」
- ^ 『三国志』陸抗伝:諸将咸欲攻闡,抗毎不許。宜都太守雷譚言至懇切,抗欲服衆,聴令一攻。攻果無利,圍備始合。
- ^ 『三国志』陸抗伝:晋車騎将軍羊祜率師向江陵,諸将咸以抗不宜上。抗曰:「江陵城固兵足,無所憂患。假令敵没江陵,必不能守,所損者小。如使西陵槃結,則南山群夷皆當擾動,則所憂慮,難可而竟也。吾寧棄江陵而赴西陵,況江陵牢固乎?」
- ^ 『三国志』陸抗伝:初,江陵平衍,道路通利,抗勅江陵督張咸作大堰遏水,漸漬平中,以絶寇叛。祜欲因所遏水,浮船運糧,揚声将破堰以通歩軍。抗聞,使咸亟破之。諸将皆惑,屡諫不聴。祜至當陽。聞堰敗,乃改船以車運,大費損功力。
- ^ 『資治通鑑』:十一月,楊肇至西陵。陸抗令公安督孫遵循南岸拒羊祜,水軍督留慮拒徐胤,抗自将大軍憑圍對肇。将軍朱喬営都督兪贊亡詣肇。抗曰:“贊軍中舊吏,知吾虚實。吾常慮夷兵素不簡練,若敵攻圍,必先此處。”即夜易夷兵,皆以精兵守之。明日,肇果攻故夷兵處,抗命撃之,矢石雨下,肇衆死者相屬。
- ^ 『資治通鑑』:十二月,肇計屈,夜遁。抗欲追之,而慮歩闡蓄力伺閒,兵不足分,於是但鳴鼓戒衆,若将追者。肇衆凶懼,悉解甲挺走,抗使軽兵躡之,肇兵大敗,祜等皆引軍還。抗遂抜西陵。
西陵の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:12 UTC 版)
詳細は「西陵の戦い」を参照 鳳凰元年(272年)秋8月、西陵督の歩闡が呉に反逆して晋に降伏すると、吾彦らを連れて西陵城に急行した。諸将らは援軍が来る前に攻城する事を勧めたが、陸抗は西陵城の防衛や装備は、かつて陸抗自身が整備したため、それを攻める困難を知悉していた事から長期戦になると判断し、広大な二重の包囲陣を突貫工事で敷かせ、城内の軍と晋軍の来援に備えた。この作業は兵士に多大な苦労を強いたため、諸将からは反対する者が相次ぎ、早急に攻撃を仕掛けて落とすべきだという意見が大半を占めた。陸抗は一度だけ攻撃を許可したが、何の成果も上げられなかったので、諸将は陸抗の命に従った。 やがて晋の車騎将軍の羊祜が江陵に侵攻する様子を見せると、部将らは江陵の防衛に回る事を提言した。しかし陸抗は「江陵は防備が固く、食糧もしっかりと備わっている。もし落ちたとしても、敵はその城を維持できまい。だが西陵を奪われれば、南方の異民族にも影響を与える。そうなったときの憂慮を思えば、江陵を棄ててでも西陵にあたるべきだ」として動かなかった。 陸抗は江陵督の将に命令して、城の周辺の水路を堰き止めさせ、敵襲と味方の離反を同時に防がせた。羊祜がその状態を利用して、船を使って江陵へ食糧を運ばせようとすると、陸抗は諸将の反対を押し切り江陵の守将に命じて、予め堤を切って輸送手段を断たせた。このため晋軍は船を使えず車に代えることにしたが、そのため輸送に大幅な損害を出した。 この後、晋の巴東監軍の徐胤が水軍により建平に向かい、荊州刺史の楊肇の軍が西陵に至り、対峙中には叛将が出るという事態も起きた。だが陸抗はこれらの危機によく対処して防ぎきり、羊祜・徐胤の動きを部将らに封じこませる間に、自らは西陵の楊肇の軍を大いに破り、楊肇の敗北を知った晋軍は西陵の救援を諦め退却した。陸抗は孤立した西陵城に総攻撃を掛けて陥落させ、反乱を鎮圧することに成功した。歩闡とその一族、幹部級の武将や軍官は処刑されたが、その他の数万に上る将卒は赦免した。反乱を鎮圧した陸抗は、西陵城を修復した後、楽郷に帰還した。大功を立てたにも関わらず、それを一切誇ることが無かったため、将士は以前にも増して陸抗を敬ったという。 陸抗は都護の職を加えられた。武昌左部督の薛瑩が召還されて獄に下されたという知らせを聞き、上疏して赦免を諫言した。 相次ぐ軍事行動により国が疲弊しきっていたため、陸抗は上疏して国力の回復を待つことを願い出た。 鳳凰2年(273年)春3月、陸抗は任地において大司馬に任じられ荊州牧の職を授けられた。 鳳凰3年(274年)夏、病が重くなった時、陸抗は上疏して、領土防衛の必要性と募兵制の現状の批判と、その改革について詳細な案を述べ、国情の休まらない事を憂えた。同年の秋に死去した。陸晏が跡を継いだが、陸抗の兵士は、兄弟の陸景・陸玄・陸機・陸雲にそれぞれ分割される事になった。 子のうち、陸晏と陸景は天紀4年(280年)の晋の呉征伐のときに戦死した。陸機と陸雲は晋に仕え、いずれも西晋時代を代表する文学者となった。だが、陸機・陸雲・陸耽が八王の乱に巻き込まれて一族皆殺しの憂き目に遭い、子孫は絶えたという。
※この「西陵の戦い」の解説は、「陸抗」の解説の一部です。
「西陵の戦い」を含む「陸抗」の記事については、「陸抗」の概要を参照ください。
- 西陵の戦いのページへのリンク