改革について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 05:39 UTC 版)
鷹山存命中の藩政改革は、重定の寵臣で専制的な森平右衛門を粛清した竹俣当綱をリーダーとして産業振興に重きを置いた前期の改革と、前期の改革後の隠居から復帰した莅戸善政をリーダーとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。 米沢藩では宝暦の飢饉において、多数の領民が餓死、あるいは逃亡し、宝暦3年(1753年)からの7年間に9699人の人口減少を経験している。鷹山の治世において起きた天明の大飢饉においては、天明3年からの7年間に4695人の人口減少に食い止めており、鷹山の改革は実効を上げていたことがわかる。ただし、改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったという評判は、明らかに誇張である。 鷹山の推奨したウコギの垣根は現在でも利用されている。若葉は苦味があるが高温の湯や油で調理して食べられる。根の皮は五加皮という滋養強壮剤になる。 日本で最も古く公娼制度の廃止にも取り組んだ。これは鷹山の愛の治世の方針に基づき、寛政7年(1795年)公娼廃止の法令を出した。公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったが、鷹山は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。」とし、廃止しても何の不都合も生じなかったという。
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