艦隊参謀長
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1924年(大正13年)12月、海軍省副官に補され、約二年在任するが、この時期の活動については後述する。「山城」艦長を経て1927年(昭和2年)12月に少将へ昇進し第二艦隊参謀長を一年、翌年12月から一年第一艦隊兼連合艦隊参謀長を務める。連合艦隊参謀長は激務であることから十分な体力を持ち、さらに作戦、戦闘指揮能力に優れた人物が補職される職位である。第二艦隊時代は吉川安平、大谷幸四郎、連合艦隊時代は谷口尚真の各司令長官を補佐し、角田覚治は両司令部でも寺島の部下である。連合艦隊時代には訓練中に第一航空戦隊(高橋三吉司令官)の「赤城」(山本五十六艦長)、「鳳翔」(原五郎艦長)に所属する航空機が、天候急変のため帰還できず6名が殉職する事故が起きた。寺島は進退伺いを提出したが、谷口長官は却下した。なお谷口、寺島司令部を、当時の連合艦隊旗艦「陸奥」の艦長であった吉田善吾は批判している。その内容は参謀長は参謀をもっと指導しなければならないという趣旨である。ただし「陸奥」砲術長は寺島が岩下保太郎以下の参謀をよく統率し、参謀たちは寺島に敬服していたと述べている。
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