聖書学校
聖書学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:40 UTC 版)
知り合いの奥田常三郎が東京府神田の東洋宣教会の聖書学校入学したことを聞く。さらに、機関紙焔の舌で聖書学院4月の開校を知る。そこで、米田は家族の反対を押し切り1901年(明治34年)5月に上京し、1ヶ月遅れで神田の聖書学校に入学する。修養生として訓練を受ける。聖書学校の教師の中田重治、チャールズ・カウマン、笹尾鉄三郎、三谷種吉などの薫陶を受ける。 1902年(明治35年)5月さらに6月に、第二回大挙伝道が行われた。その時中田重治は、三谷種吉の組織した修養生による福音音楽隊を率いて東北、北海道の各地を巡回した。その時、米田は福音音楽隊の一員として、大太鼓を叩く。8月には弘前で伝道した時には、後に日本メソジスト教会重鎮になる阿部義宗がキリスト教に回心する。 1902年の年末には修養生を五組に分けて実地伝道に派遣する。米田は、休暇を兼ねて藤樫と一緒に千葉県に派遣された。 1904年(明治37年)に20歳で徴兵検査を受け日露戦争に従軍する。1905年(明治38)に終戦後、本国に帰還する。その後、聖書学院に復学し、岩手県土崎へ伝道に派遣される。その時、小原十三司らに出会い、小原たちをキリスト教信仰に導く。 1908年(明治41年)に最初の妻白浜たけと結婚する。
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