紀元前495年の侵攻
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「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「紀元前495年の侵攻」の解説
リウィウスによれば、ローマが勝利したレギッルス湖畔の戦いに先立ち、ウォルスキはラティウム同盟を支援するために兵を準備していた。しかしローマの独裁官(ディクタトル)アウルス・ポストゥミウス・アルブス・レギッレンシスが迅速に進軍したため、ウォルスキ軍は戦闘には間に合わなかった。しかしウォルスキのこの行動を知った執政官プブリウス・セルウィリウス・プリスクス・ストルクトゥスは、紀元前495年にウォルスキ領内に侵攻した。ウォルスキはコラ(en)とスエッサ・ポメティア(en)の指導者の子息300人を人質として差し出した。ローマ軍は撤退した。 しかしこの後直ぐに、ウォルスキはヘルニキと同盟し、ラティウム同盟にも支援を求める使節を送った。しかしラティウム同盟は先のレギッルス湖畔の戦いの敗北の直後であり、ウォルスキとの同盟は新たな戦争を引き起こすと考え、ウォルスキの使節団を拘束してこれをローマに送り、さらにウォルスキとヘルニキが戦争の準備を始めていることを伝えた。これに感謝した元老院は6,000人のラティウム同盟軍捕虜を解放した。その返礼としてラティウム同盟はローマのユピテル・オプティムス・マキシムス神殿に黄金の王冠を寄贈した。この結果、開放されたラティウム捕虜を含む大勢の群集が互いに感謝し、ローマとラティウム同盟の間に友好が生まれた。 紀元前495年の遅く、ラティウム騎兵がウォルスキがローマに向かって進軍中との情報をもたらした。当時ローマでは過大な債務のために身柄を拘束されるプレブスが続出し、パトリキ(貴族)で構成される元老院との間に確執が生じていたが、これを早急に解消する必要があった。しかし、プレブスはウォルスキとの戦いのために軍に入隊することを拒否した。元老院は執政官ストルクトゥスにプレブスを説得させ、ストルクトゥスは債務の一部を軽減し、さらに戦後に債務問題をさらに考慮することを約束した。これで市民は入隊の宣誓を行い、ストルクトゥスは軍を率いてローマを出撃、敵軍近くに野営した。 ウォルスキ軍は、ローマ軍が一枚岩ではないことを期待して、翌日の夜にローマ軍の野営地を攻撃した。しかしローマ軍は直ちに武器を取り反撃を実施した。ウォルスキ軍は次の日にも、堀を埋めて突破し塁壁を攻撃した。ストルクトゥスは兵に反撃を控えさせ、ウォウルキ軍が野営地を守るローマ軍の防御設備の大部分を破壊するのを許した。続いて、攻撃命令を発したが、ウォルスキ軍はローマ軍の最初の攻撃で崩れた。ローマ軍はウォルスキ軍をその野営地まで追撃してこれを包囲、ウォルスキ軍が脱出するとこれを略奪した。続いてスエッサ・ポメティア(en)に進軍し、これを占領・略奪した。その後勝利の栄光と共にローマ軍は帰還した。ウォルスキ都市エケトゥラ(en)からの使節がローマに到着し、領土の一部を割譲することを条件にローマと講和条約を締結した。
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