空軍パイロット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:49 UTC 版)
「ラインハルト・ハイドリヒ」の記事における「空軍パイロット」の解説
ハイドリヒは大戦中に空軍パイロットとしても出撃していた。枢軸・連合国を通じてこのような行動に出た高官は極めて珍しい。事の始まりは、1936年に彼が保安警察長官となった際、専用の公用航空機を与えられたことだった。ハイドリヒは航空機の操縦に強い興味を示し、毎日のように執務時間前にパイロットから操縦の仕方を習い、複葉機に乗って急上昇や宙返り、横転の練習をして楽しんでいた。これが高じてベルリン郊外のシュターケン(ドイツ語版)にあったドイツ空軍飛行場などにも出入りして、飛行練習をするようになっていた。 1939年9月1日にポーランド侵攻が開始されると、ハイドリヒはブルーノ・レールツァー空軍少将に頼み込んで自らを第55爆撃機団(KG55)所属の予備役空軍大尉(後に少佐に昇進)にしてもらった。1939年9月12日にポーランド戦線に機銃手として初めて出撃した。しかし彼は機銃手だけでは満足せず、シュターケンの飛行場で戦闘機パイロットとして訓練を受け、戦闘機パイロットの資格を得た。そして1940年4月のノルウェー侵攻では第1飛行隊(JG1)所属のメッサーシュミットBf109のパイロットとして出撃した。またメッサーシュミット Bf110のパイロットとしてイギリスやスコットランドへの偵察にも飛んでいる。1941年6月に始まる独ソ戦では、単独飛行で赤軍の対空砲火を撃破する活躍をしており、一級鉄十字章を叙勲している。ヒムラーはしばしば「高官が戦闘行為に及ぶ危険」をハイドリヒに説いたが、彼は国家保安本部が軍以外で唯一前線移動が認められていることを盾にして聞きいれようとしなかった。しかし、東部戦線における出撃の際、ベレジナ川の東方で搭乗した戦闘機が被弾し、緊急着陸するという事件があった。彼は赤軍に見つからぬよう洞窟に身を隠し、SDの部隊に救出されて生還している。これを聞いたヒトラーは今度ばかりはハイドリヒに飛行禁止命令を出し、出撃をやめさせた。
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