神体山
神体山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 03:18 UTC 版)
『画詞』に「当社大祝は此れを神体として崇敬異他の重職なり」とある通り、中世には上社の祭祀の対象は大祝であるという認識が根強かった。 山を上社の神体とする現存する最古の文献は天文22年(1553年)12月の奥書のある『上宮鎮坐秘伝記』である。 古記に云はく、神の岩隠か、諏方国鎮座の処、宮社を造らずして、唯拝殿を之を建て、山を以て神体と為して之を拝す。則ち父の尊、大和国三輪の神陵に傚(なら)ひて建る。神の和魂・陰霊鎮座の処なり。(原漢文) これが守屋山神体山説の元と考えられているが、ここには守屋山の名は出てこない。江戸時代の文献には守屋山に筆頭神官の神長官を務める守矢氏の祖先(洩矢神あるいは物部守屋)の霊を祀るとはあるものの、守屋山を上社の神体山とうかがわせる記述はない。守屋山を神体山とする説はむしろ明治時代以降から見られるものである。実際には山頂の石祠は物部守屋を祀る守屋神社(伊那市高遠町)の奥宮とされている上にそれには御柱がなく、諏訪に背を向けている。ただし、諏訪明神が守屋大臣(洩矢神)と覇権争いをした際に降臨した場所は守屋山の麓という『諏訪信重解状』(伝・1249年)に書かれている伝承で見られるように、この山は必ずしも上社とは全く関係がないとは言えない。織田氏による甲州征伐(1582年)の際に神輿を担いだ神官たちが避難した先は守屋山であったと言われている。
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