こうちょう‐じゅうにせん〔クワウテウジフニセン〕【皇朝十二銭】
皇朝十二銭
読み方:コウチョウジュウニセン(kouchoujuunisen)
奈良時代から平安時代の12種の銅銭。
皇朝十二銭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 14:52 UTC 版)
皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)は、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて律令制下の日本で鋳造された12種類の銅銭の総称。本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれる。
- ^ a b 今村啓爾 『富本銭と謎の銀銭』 小学館、2001年
- ^ 利光三津夫「神功銭鋳造をめぐる史的背景」『法学研究-皇朝銭に対する政治史的研覈』43巻10号(1970年)。森明彦「奈良時代末期の銭貨をめぐる矛盾と対策」『日本古代貨幣制度史の研究』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1283-6
- ^ 高橋照彦 「銭貨と土器からみた仁明朝」角田文衞監修・古代學協會編『仁明朝史の研究』 思文閣出版、2011年
- ^ 『続日本後紀』承和6年10月1日条
- ^ 甲賀宜政 『古銭分析表 考古学雑誌』第9巻第7号、1919年
- ^ 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年
- ^ a b 榎村寛之 「平安時代中期の京内銭貨幣流通についての一考察 ‐長徳二年(九九六)十二月十七日の「贓物勘文」を読む‐」栄原永遠男 編『日本古代の王権と社会』 塙書房、2010年
- 1 皇朝十二銭とは
- 2 皇朝十二銭の概要
- 3 参考文献
皇朝十二銭
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和同開珎の発行量が増えるにつれて物価も上昇して、711年(和同4年)は穀6升=銭1文が、751年(天平勝宝3年)には穀6升=銭30文に上がった。物価上昇を受けて律令政府は、私鋳銭への対策という名目で新貨幣を発行した。次に発行された万年通宝は、銅量は和同開珎と同じでありながら、和同開珎の10倍の価値を持つと定められた。708年(和銅元年)から平安時代中期の958年(天徳2年)にかけての250年間に12種類の銅貨が発行され、朝廷が発行したことから皇朝十二銭と呼ばれた。発行年は以下の通りである。 貨幣名発行年和同開珎 708年(和銅元年) 万年通宝(萬年通寳) 760年(天平宝字4年) 神功開宝(神功開寳) 765年(天平神護元年) 隆平永宝(隆平永寳) 796年(延暦15年) 富寿神宝(富壽神寳) 818年(弘仁9年) 承和昌宝(承和昌寳) 835年(承和2年) 長年大宝(長年大寳) 848年(嘉祥元年) 饒益神宝(饒益神寳) 859年(貞観元年) 貞観永宝(貞観永寳) 870年(貞観12年) 寛平大宝(寛平大寳) 890年(寛平2年) 延喜通宝(延喜通寳) 907年(延喜7年) 乾元大宝(乹元大寳) 958年(天徳2年) 奈良時代には、平城京のある畿内とその周辺地域を中心として銅貨が使われた。しかし原材料の銅生産は、酸化銅を成分とする孔雀石などからの製錬は容易であるが、火山が多い日本列島では当時は製錬が困難である硫化銅を成分とする黄銅鉱の産出が主体だった。そのため中世に精錬技術が向上するまでは銅が慢性的に不足して、銅の含有率が低下した。和同開珎の含有率90パーセントから万年通宝の78パーセント、富寿神宝の66パーセントと低下が続き、銅の代わりに鉛の含有率が増えてゆく。律令政府は改鋳益を得るため、改鋳のたびに目方と質が低下した新貨を旧貨の10倍の価値で通用させようとした。交換比率は8つの銅貨で記録が残っており、それにもとづけば、延喜通宝1枚は和同開珎1億枚と同じ価値となる。実際には旧貨よりも銅含有率が低い新貨を、価値が高いものとして扱ったため、旧貨は退蔵されて流通されなくなる。そこで朝廷では和同開珎の使用を禁止して、蓄銭禁止令を出し、蓄銭叙位令を廃止した。これらの施策は、通貨量の確保と、インフレーションの防止が目的だったとされる。
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