病気への抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:46 UTC 版)
基次郎は長く結核を患い、医師からも養生を警告されていながらも、行動は健康な青年と変わらずに振舞い、他人にそれほど重病だとは思わせないようにしていた。湯ヶ島滞在中も、広津和郎の小学生の子供と一緒に裸で2時間も川に浸かって釣りをしていた(その時期、高熱があったことが後に判明)。 またある日、生汗を滲ませ青白い顔をしていたため、同行していた蔵原伸二郎が無理をしないように助言した時も、「いや無理をしてゐるんではないんですが、寝てゐたつて同じなんです」と基次郎は言ったという。自身が病気なのに、飯島正の病気見舞いに人力車で駆けつけたこともあり、逆に飯島から「養生第一にしろ」と怒られると、素直に何度もうなずいて、苦しそうな息をこらえながら目を細めてニコニコしていたという。 基次郎は、友人が自分の結核が感染することを怖れていることが判るとひどく傷ついた。淀野隆三の下宿に行くと、毎回店屋物が出されるので、自分の結核のためだと気にした。友人らはそれを基次郎の我儘だと感じたが、基次郎にとっては自分にそれを気づかされるようにしてほしくはなかった。 湯ヶ島滞在時に、何人かが集まり西瓜を全員で食べることになった時も、基次郎はそれを半分に割り、自分が使ったスプーンを突っ込んで掬って食べ始めたため、誰も西瓜に手を出せなくなり一座の空気が一瞬凍りついた。しかし基次郎はそれに気づいていながらも、素知らぬ顔でがむしゃらに食べ続けたために、逆に皆の気まずさが救われた。広津和郎は、そんな基次郎に「強靭さ」に感銘し、「これはえらいぞ」と感じたという。 誰かの下宿に、同人らが集合してコーヒーを入れた時に茶碗が足りないと、基次郎は自分が飲んだ茶碗を簡単に拭いただけで、差し出したりした。それは基次郎が無神経でやっているのではなく、病気に抵抗しているんだと忽那吉之助は感じたという。その一方、基次郎の部屋で5日間過ごした北神正が、一つしかない基次郎の茶碗で平気でコーヒーを飲んでいると、「おいお前、そないしたらあかんで」と落ち着いて言い、年下の者には特に優しかった。 しかし、中谷孝雄や三好達治らとは鍋を一緒に囲んだりもしている。中谷孝雄は 後に「俺は結核のことを、よく知らなかったんだよ。若かったね」と回想している。 下宿の隣部屋に三好達治が同居していた時、ある晩基次郎は「葡萄酒を見せてやらうか…美しいだらう…」と三好を呼び、ガラスのコップを電灯にかざし透かして見せた。その美しい鮮明な赤い液体が、基次郎が直前に喀血した血だと言われるまで、三好は気づかなかった。それは茶目っ気混じりの基次郎のブラックユーモアであったが、病気への抵抗と美意識が感じられたという。 そんな強気の基次郎であったが、身体がだいぶ弱ってきて稲野村の千僧にいる頃には、見舞いに来た丸山薫を門で見送る時に、「たとへライオンが追駆けて来たつて、もう僕は二た足と走れないのだ」という悲しげな諧謔を言っていた。 ちなみに、三好達治は基次郎の亡くなる少し前(1931年10月末)に彼の家に泊まったが(その時の帰りのバスで立つのもやっとな基次郎が外まで見送りに来たが、それが三好の見た最後の基次郎であった)、その時に罹患したのか三好はその後に結核になってしまう。病院に入院した三好は、見舞いに来た友人に吐いた血をグラスに入れ「葡萄酒を見せてやらうか…美しいだらう…」といつかの基次郎の真似をして見せた。三好は幸い助かるが基次郎は亡くなってしまった。それについて三好は、基次郎から病気をもらったのだと弟子の石原八束に語っている。 結核のために所帯を持つことを諦めていた基次郎だったが、亡くなる約4か月には、見舞いに来た姉・冨士に、「実はなあ、僕、このごろ結婚しようかと考える時もあるねん」と、誰も当てがないにもかかわらず話したという。「だれもおらんけど、結婚するんやったら看護婦さんとやな」「これ以上、母さんに苦労かけとうないさかいな」という言葉に、冨士が思わず胸をつかれて黙ると、基次郎はあわてて笑い声を立てて冗談めかした。
※この「病気への抵抗」の解説は、「梶井基次郎」の解説の一部です。
「病気への抵抗」を含む「梶井基次郎」の記事については、「梶井基次郎」の概要を参照ください。
- 病気への抵抗のページへのリンク