生存者と証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/14 01:24 UTC 版)
この事件の目撃者として認定された生存者は成人男性1名、子供5名の計6名だけだった。 ヨシフ・カミンスキー(1887年 - 1973年)は当時56歳であり、成人としては唯一の生存者だった。ハティニ博物館によれば、カミンスキーはドイツ軍部隊が立ち去った後に意識を取り戻し、村人の遺体の中から負傷した息子を見つけ出したものの、息子は腹部に致命傷と全身に火傷を負っており、彼の腕の中で息を引き取ったという。彼は後に記念像「不屈の人」のモデルとなった。 ヴィクトル・アンドレーヴィチ・ジェロプコーヴィチ(Viktor Andreevich Zhelobkovich、1934年 - )は後に歴史家のルドリング(英語版)に虐殺の様子を語っており、村を襲った部隊は彼の家族に家から出るように命じ、村の他の家族と共に村の外側にあった納屋に集められたこと、納屋の壁に干し草が積み上げられ火が放たれたのを壁の隙間から目撃していたこと、屋根が燃えて崩壊したため村人が納屋の扉に押し寄せ、扉は開いたものの納屋の周囲を包囲していた部隊が逃げようとする人々に発砲したことなどを証言した。 ソフィア・アントノヴナ・ヤスケーヴィチ(Sofia Antonovna Yaskevich、1934年 - )は当時9歳で事件の夜はおばと兄ヴォロージャ(Volodya、1930年 - 2008年)と共に家におり、ドイツ兵が来たという村人の声を聞いて家の外へと駆け出した兄は撃たれたものの当たらずに隠れることができたが、おばは彼女を地下貯蔵庫に隠してドイツ兵に撃たれたのだと証言している。ドイツ兵は地下貯蔵庫に気付かず、彼女は兵士が立ち去った後に煙が流れ込んできたために家の外に出て、ドイツ兵に見つかることなく村の外の農場へとたどり着き、そこで兄と再会して共に逃げたのだという。 ヤスケーヴィチ兄妹以外では、ドイツ兵から身を隠すことができたのはアレクサンドル・パーヴロヴィチ・ジェロポコーヴィチ(Alexander Petrovich Zhelobkovich、1930年 - 1994年)だけだった。納屋にいた村人では、他にアントン・ヨシフォヴィチ・バラノフスキー(Anton Iosifovich Baranovsky、1930年 - 1969年)が足を負傷したのみで生き延びた。また少女2人が火傷を負った状態で別の村の住民に救助されたが、彼女らはその村が焼き払われた際に死亡したという。
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