清浦内閣
清浦内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 15:05 UTC 版)
「清浦内閣」および「第二次護憲運動」も参照 1923年(大正12年)、第2次山本内閣が虎ノ門事件で総辞職すると、総選挙施行のため公平な内閣の出現を望む西園寺の推薦によって、組閣の大命は再び清浦の下に降下した。1月1日に大命を受けた清浦は75歳という老齢と枢密院議長という職責から拝辞したい意向を1月3日に奏上するが、摂政宮裕仁親王より「此際の事であるから務めてやれ」という優諚を受けたため、清浦は組閣を行うこととなった。 清浦は組閣にあたって自らの支持基盤であった研究会を中心としたため、内閣の構成は貴族院に大きく偏重していた。貴族院からの入閣は研究会が3、交友倶楽部が2、茶話会が1、公正会が1という配分であり、陸海軍大臣のほかは外務次官であった松井慶四郎が入閣したのみであり、政党からの入閣者はなかった。ただし、西園寺が清浦推挙にあたって「政友会を尊重せしめ、政策により助けさせるが宣し」と述べたように西園寺は清浦内閣と政友会の協調が行われると考えており、清浦の側では政友会を敵とする意図は持っていなかった。また研究会は伝統的に政友会との協調関係を持っており、組閣にあたっても政友会との調整が行われていた。また内閣書記官長として政友会の衆議院議員であった小橋一太を招き、政友会との連絡も保持されていた。清浦は後に貴族院で「過渡期ニ於イテ斯ノ如キ内閣ガ憲政ノ常道に背クモノトハ思イマセヌ」と答弁している。 ところが山本内閣の後は政友会内閣であろうと考えていた政友会の派閥はこれに反発し、総裁高橋是清を辞任させようという動きが強まった。高橋派が主導権奪還のために清浦内閣との対決姿勢を強める一方、1月1日の夜には反高橋派である「改革派」の会合が行われ、清浦内閣に対し「積極的援助の方針を取る」ことが申し合わされている。 1月11日には都内の新聞各紙が清浦内閣に反発したこともあり、議会内外での倒閣の動きがはじまった。1月18日に枢密顧問官三浦梧楼の仲介で政友会総裁高橋是清、憲政会総理加藤高明、革新倶楽部犬養毅の会合が行われ、「特権内閣を一日も早く打倒」するという申し合わせが行われ、いわゆる護憲三派による倒閣活動「第二次護憲運動」が本格化した。 これを受けて1月22日の衆議院本会議では清浦首相が施政方針演説と普通選挙法案提出を行う予定であったが、裕仁親王成婚を控えた中で政争は慎むべきであるという政友会の小川平吉の動議により、29日までの休会が議決されたため、行われなかった。一方、研究会の勢力拡大とその党派性の強い議会運営に反感を抱いていた「幸三派」と呼ばれる反研究会勢力による貴族院内での清浦批判も勢いづいた。 また護憲三派が2月1日に内閣不信任案を提出する意向を固め、これを察知した小橋書記官長はそれ以前の解散を進言した。清浦はこれを容れ、1月29日の本会議で解散を行った。これは「懲罰解散」と呼ばれ、各層の反感を買った。1月29日には政友会から「改革派」であった床次竹二郎一派149名が政友本党を結成して分裂し、清浦内閣の準与党となった。 5月10日に行われた第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派は合計で281名が当選、一方で準与党の政友本党は改選前議席から33減の116議席となった。清浦はすでに敗北を予期しており、投票日の当日には辞任する意向を漏らしている。西園寺は「清浦は辞する必要はないと思ふ」と述べたものの、現実には議会運営は不可能であった。5月15日に清浦内閣は総辞職した。5か月間の短命内閣であった。清浦は憲政の常道に従い、第一党となった憲政会総裁加藤高明を推挙したいという意向を西園寺に伝えたが、西園寺は拒絶し、元老としての西園寺が改めて加藤を奏薦した。
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