権力の座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 11:29 UTC 版)
「ルイージ・ディ・ターラント」の記事における「権力の座」の解説
弟アンドレア殺害の報復のためラヨシュ1世がナポリを侵攻した後、ルイージとジョヴァンナ1世はジョヴァンナが保持していたプロヴァンス伯領に逃亡した。そして2人はアヴィニョンでナポリ王の上級領主である教皇クレメンス6世と会った。結婚の承認と、アンドレア殺害への告発に対する支援を確実なものとするため、ジョヴァンナ1世は教皇にアヴィニョンを売却した。 黒死病の流行により、1348年8月にハンガリー軍はナポリからの撤退を余儀なくされた。ルイージとジョヴァンナ1世は長女カテリーナが生まれたばかりであったが、すぐさまナポリに帰還した。1349年初め以降、王国で発行された全ての文書はルイージとジョヴァンナ1世の両方の名前で発行され、ルイージが明らかに軍事要塞を管理していた。この共同統治の間に鋳造された貨幣には、常にルイージの名前がジョヴァンナ1世の前に記されていた。ルイージは1352年まで教皇クレメンス6世からは正式に王とは認められていなかったが、ナポリの人々はルイージがこのような活動を始めた頃からルイージを君主と見なしていた。 ルイージは他のハンガリーからの攻撃により引き起こされた混乱を利用して、ジョヴァンナ1世から完全に王権を奪った。ルイージはジョヴァンナ1世の支持者を宮廷から一掃し、ジョヴァンナのお気に入りであったエンリコ・カラッチオーロを1349年4月に姦通の罪で告発し、処刑したとみられる。
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