植民者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/19 04:50 UTC 版)
プリマス会社の最初の船リチャード号は1606年8月に出帆したが、スペインが11月にフロリダの近くで妨害し捕獲した。 次の試みはもう少し成功した。1607年5月31日に約120人の植民者が2隻の船でプリマスを出航した。彼らは貴金属、香料および毛皮を交易し、地域の森林がイギリスの船を作るために使えることを示す意図があった。植民者の指導者ジョージ・ポパム(英語版)がローリー・ギルバートを副指揮官としてギフト・オブ・ゴッド号に乗船した。もう一つの船の船長ロバート・デイビスが日誌を付けており、これがポパム植民地に関する当時の主要情報源の1つとなっている。 ジョージ・ポパムは植民地の財政的後ろ盾、イングランドの首席裁判官であるジョン・ポパム(英語版)卿の甥であり、ローリー・ギルバートはウォルター・ローリー卿の腹違いの甥だった。その他の出資者として、プリマスの軍政府長官フェルディナンド・ゴージズがおり、植民地における出来事の情報大半は彼の手紙や回想録から得られている。開拓者達には9人の評議会員や6人の紳士が含まれており、残りは軍人、工芸職人、農夫および交易業者だった。 ギフト・オブ・ゴッド号は1607年8月13日にケネベック川(当時はサガダホック川と呼ばれた)河口に到着した。もう1隻のメアリー・アンド・ジョン号は3日後に到着した。ポパム植民地はサビーノと名付けられた地域の突端に設立された。植民者は直ぐに大型の星型をなすセントジョージ砦の建設を始めた。セントジョージ砦は溝や塁壁があり、半カルバリン砲からファルコン砲までの大きさがある9門の大砲が備えられた。
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