梅暮里谷峨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 18:35 UTC 版)
梅暮里 谷峨(うめぼり こくが、1750年(寛永3年)- 1821年9月28日(文政4年9月3日))は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した戯作者、藩士。通称及び幼名は反町三郎助、後に与左衛門。別号に梅月堂梶人、蕣亭、遊里山人等。谷我とも表記される。梅暮里は本所埋堀の藩邸にちなみ、谷峨は母方の姓名に拠る。没後に江戸幕府の旗本であった萩原乙彦が2代目梅暮里谷峨を名乗っており、「初代」として区別される。
- ^ 岡本勝・雲英末雄 『新版近世文学研究事典』 おうふう、2006年2月、139頁。
- 1 梅暮里谷峨とは
- 2 梅暮里谷峨の概要
梅暮里谷峨と同じ種類の言葉
- 梅暮里谷峨のページへのリンク