核抑止論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 16:41 UTC 版)
一方、1950年代後半に、科学者の間で核実験の停止へと向けた運動が活発になると、シラードはそれが核開発競争の停止や平和の構築に繋がるという議論に疑いを投げかけ、政治目的のために科学をねじまげるものだと批判した。この頃には水爆の小型化が可能となり、さらに1957年ソ連が初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功して、米ソの対立は不安定な過渡期を経た後に、やがて水爆弾頭を搭載した長距離ロケットによる手詰まり段階へと進展すると思われた。シラードは相互確証破壊の条件を確保することで爆弾を保持したまま平和を維持するいわゆる核抑止の考えをまとめ、1958年の第2回パグウォッシュ会議を初めとした会議で表明することになった。こうした意見は他の参加者たちを当惑させつつもやがて趨勢となった。この核抑止論は、核兵器を「絶対悪」とした日本の学者からは批判された。シラードは1960年に論文『爆弾と共に生き、そして生きのびる方法』(How to live with the bomb and survive)をまとめ、ここでは核の手詰まり状態を予測し、許諾された脅威を定め、限定核戦争が勃発した場合の相互の都市への核攻撃におけるルール作りのようなものさえ案出した。
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