本部朝基語録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 21:28 UTC 版)
すべては自然であり、変化である。 構えは心の中にあって、外にはない。 夫婦手は唐手の欠かすことの出来ない定めで、日常生活の中でも――例えば酒を注ぐとき、盃を持つとき箸を取るとき等々――拳法修業者はこの定めを守るようにし、夫婦手の定めを自ら身につけるようにしなければならない。 一見しただけで、その者の当身の力がどれほどのものか、見分けるようにならねばならない。 当身の力の乏しい相手の攻めはいちいち、受けなくともよい。一気に攻めるべきである。 唐手は先手である。 ナイファンチの形の足腰の在り方が、唐手の基本である。 ナイファンチの形を左右、いずれかに捻ったものが実戦の足立で、ナイファンチの型は左右、いずれかに捻って考えた場合、いちいちの動作に含まれるいろいろな意味が判ってくる。 受け手がすぐ攻め手に変化しなければならない。一方の手で受け、他方の手で攻めるというようなものは、真の武術ではない。さらに進めば、受けと攻めが同時に行われる技が本当の武術である。 真の唐手に対しては、連続突きなどは出来ない。それは真の唐手で受けられたなら、相手の次の手は出ないからである。 面白いもので、自分は座ったまま、心の中で形をやると、自然と汗をかくのである。 自分の唐手には、猫足、前屈、後屈などという立ち方はない、いわゆる猫足などというものは武術の上で最も嫌う浮き足の一種で、体当たりを食えばいっぺんに吹っ飛んでしまう。前屈、後屈などというのも不自然な立ち方で、自由な脚の働き、動きを妨げる。自分の唐手の立ち方は、形の時も、組手の時も、ナイファンチのように軽く膝を落とした立ち方で、自由に運足し、攻防に際しては膝を締め腰を落とすが、前にも後ろにも体重をかけず、いつも体重は均等に両足にかける。 中田瑞彦「本部朝基先生・語録」昭和53年(1978年)、小沼保『琉球拳法空手術達人 本部朝基正伝』所収。全38語録の内、12語録を抜粋。
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