本島
本島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:36 UTC 版)
3月25日酉刻過ぎ、薩摩軍は沖縄本島北部今帰仁の運天港に到着した。27日には今帰仁城に行ったが、空き屋だったので、方々に放火した。薩摩軍が向かう前に逃げ落ちたという。 薩摩軍が今帰仁に到着すると、西来院菊隠が和睦の使者に選ばれた。菊隠は琉球人だが、若くして出家して日本に十数年遊学し、帰国後は首里の円覚寺住職を勤め、この頃は老齢のために退職していた。人選の理由としては、島津三殿と知り合い、日本語に達者との説がある。菊隠は最初は断ったが国王に重ねて召されたため、国恩に報いるべく、已むを得ず詔に応じたという。 「行向て無為和睦を申調られよ」との命を奉じた菊隠使節団は、26日辰刻に陸路で出発した。随行の人員には名護親方や喜安などがいた。26日午刻に久良波に着くが、ここで今帰仁までの道は敵で満ちており通れないと聞いた一行は、久良波から漁師の舟を出させて恩納に行った。27日払暁、恩納より船で出発、親泊で一時停泊して、「使者を出して趣意を述べさせる」案を議論していたところ、薩摩船一艘がやって来た。この船に乗り移り今帰仁に着いた。菊隠の趣意について兼篤は、「ただ合戦を止められるべし、進退は宣く乞に随うべし(進退はおっしゃる通りにいたします)」とし、さらに菊隠到着直後に、またまた使僧が到着したことも報告している。運天で決定したのは、那覇で和睦の談合を行うという事であった。この結果、名護親方が人質になった。 29日早朝、菊隠は薩摩船団とともに運天を出港、同日酉刻大湾に着く。菊隠使節団のみすぐ再出港して亥刻に牧港に着いた。そこから徒歩で夜更けに首里城到着。報告を済ませて夜明け頃には那覇に下って待機した。 運天での和睦申し入れを受けて、樺山はことごとく那覇港に行くつもりであったが、ここで那覇港の入り口に鉄鎖が張ってあると聞いた。そこで4月1日、樺山は数人の物主を船で那覇港に向かわせる一方、残りは総て陸に挙げ、1日卯刻、首里への行軍を開始した。この頃、和睦の旨を万が一にも違えじということで、具志頭王子が大湾の沖まで出向いたが、薩摩軍は既に陸地から発向した後だったので虚しく帰った。 薩摩軍は浦添城と龍福寺を焼き払いつつ首里に接近した。情報に基づいて、太平橋に宗徒の侍(むねと。中核となる侍)百余人を配置したところ、会敵には成功したが、雨のように鉄砲を打ちかけられ、城間鎖子親雲上盛増(城間盛久の長男)は被弾してそのまま首を取られ、その他全員は戦意喪失して首里城に逃げ込んで終わった。一方で中山王府の御典医を勤めていた山崎二休なる越前人が、首里城のアザナに立てこもって法元弐右衛門の部隊を撃退した。このような戦闘行動について、小湾浜にいて、那覇首里の様子を聞き合せようとの議定だったが、足軽衆が首里へ差し掛かり、鉄砲を取合い、特に方々に放火したので、計らず軍衆は首里近く差し掛かったとする史料があり、足軽衆が発砲して放火したものの、その他の軍衆については、あくまで仕方なく首里に接近しただけであると薩摩側では主張している。大湾・首里間で「和平を成するに狼藉然るべからず」との下知があった、そのうちいよいよ和議が成ったので諸軍勢は那覇に入った。 4月1日未刻、薩摩船が那覇港に入り、和睦の調があった。列席者は薩摩側:大慈寺、市来織部、村尾笑栖。琉球側:具志頭王子尚宏、西来院(菊隠)、名護、池城安頼、豊美城續、江栖栄真、喜安、津見などであった。するとにわかに「首里で火事だ」と騒がしくなった。「昼なのだから、手あやまりによる火事ではない。敵が攻めてきて火をかけたのだろう」と思われた。止めてくるといって、市来織部と村尾笑栖が首里まで駆け上がり、程なくして静まった。 結局、首里侵入事件は、摂政・具志頭王子と三司官が人質になる事で決着した。実際に彼らが引き渡されたのは2日である。ともあれ、これをもって4月1日、申之刻(午後4時)、那覇に薩摩全軍撤退完了。大規模軍事行動はひとまず終結した。
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