朝妻一郎とは? わかりやすく解説

朝妻一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/17 08:59 UTC 版)

朝妻 一郎(あさつま いちろう、本名・春昭。1943年2月1日 - )は、日本の実業家音楽評論家音楽プロデューサーフジパシフィックミュージック、Fuji Music Group, Inc.代表取締役会長[1]日本音楽出版社協会顧問(元会長)。東京都出身[1]

来歴・人物

高卒後、石川島播磨重工業造船事業部に勤務。高校時代にポール・アンカのファンクラブ会長に就任[1]、会報の発行を行っていたことから、レコード会社のディレクターより依頼され、会社員生活の傍ら、1963年よりレコード解説の執筆を始める[1]。また、高崎一郎の知遇を得、アシスタントとしてニッポン放送で選曲や台本書きのアルバイトを務める[1]。なお、ペンネームの「一郎」は高崎から取ったものである。

1966年、石川島播磨重工業を退社し、ニッポン放送の子会社で高崎が中心となって設立(高崎はのち社長に就任)した音楽出版社・パシフィック音楽出版(PMP、現フジパシフィックミュージック)に入社[1]。ちなみに、「パシフィック」という社名は朝妻の考案という[2]。入社後は楽曲の契約を担当する一方、ディレクターとしてザ・フォーク・クルセダーズジャックスのレコード制作を手掛ける[1]。以来、大瀧詠一山下達郎サザンオールスターズオフコース等に関わる。一方で、PMP入社後も並行して1970年代までは音楽評論も続けていた[1]

フィル・スペクターと彼が作り上げた「ウォール・オブ・サウンド」に造詣が深く(1970年頃に弟子入りを志願、OKが出ていたが諸事情により実現せず)、自らプロデュースした楽曲がコンピレーション・アルバム音壁 JAPAN』(ソニー・ミュージックダイレクト)に2曲(「二人は片想い」(ポニー・テール)、「わすれたいのに」(モコ・ビーバー・オリーブ ))収録されているほか、2008年に出版された彼の伝記『フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂新装版』(白夜書房)では監修を担当した大瀧との対談が収録されている。

1985年、PMPはフジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)の子会社・フジ音楽出版と合併、フジパシフィック音楽出版と改称されるとともに社長に就任[1]。その後もおニャン子クラブWink等に関わる。2005年より同社会長[1]

1985年には、当時フジサンケイグループ議長だった鹿内春雄ビートルズの著作権を管理していた音楽出版社・ATVミュージックの買収を進言。資金面がネックで断念したものの(最終的にはマイケル・ジャクソンが4750万ドルで買収)、1988年にはフジテレビと共同出資でアメリカ合衆国にWindswept Pacific Musicを設立。スパイス・ガールズなどを抱え、全米でトップ10、インディーズとしては最大の音楽出版社に育て上げた。

1999年には、Windswept設立時に行った6000万ドルほどの借り入れが銀行から不良債権として返済を迫られ、その大半をEMIに約2億ドルで売却した[3]が、売却した残りの楽曲を元にWindswept Holdings LLCを設立、ビヨンセなど人気アーティストを輩出し、2003年には伊藤忠商事と共同でT/Q Music, Inc.を買収、再び全米インディーズ系最大の音楽出版社となった(2007年売却)。

また、2004年8月には、みずほコーポレート銀行みずほ信託銀行と共同でフジパシフィックが保有する約400曲の音楽著作権収入を担保とした「FGMファンド」を設立。日本で音楽著作権が資産として評価される先駆的役割を果たした。同年11月には、フジテレビとともに民法上の任意組合「フジ・ミュージックパートナーズ」を設立、シンコー・ミュージック・エンタテイメントから洋楽出版事業(SBKカタログ)を譲受するとともに、シンコーの子会社であるシンコー・ミュージック・パブリッシャーズを買収。

これらの功績により、2007年、ビルボード誌が選ぶ「MIDEM(国際音楽産業見本市) Master」10人の中に選ばれた。2021年4月には同誌が選ぶBillboard international power playersに選出される[4][5]

2019年、文化庁長官表彰[6]。2020年、旭日小綬章受章[7]

著書

関連項目

  • 東京都出身の人物一覧
  • 鹿内信隆 - ニッポン放送創設者・社長。
  • 日枝久 - 息子・朝妻一の入社時のフジテレビ社長。
  • 朝妻一 - 朝妻の子息でフジテレビプロデューサー。
  • 亀渕昭信 - 朝妻と同時期に高崎の元でアシスタントを務めたのち、ニッポン放送入りした。
  • 石田達郎 - PMP創設者、初代社長。
  • 羽佐間重彰 - PMP設立当時ニッポン放送編成部長で朝妻が考案した「パシフィック」を社名に採用。のち社長に就任。
  • 草野昌一 - シンコーミュージック・エンタテイメント元会長。朝妻がPMP入社直後、草野に『ミュージック・ライフ』誌の専属契約を持ちかけられるが断っている(当時朝妻はライバル誌『ティーン・ビート』のメインライターだった)。
  • 千の風になって - 新井満から朝日新聞天声人語」に掲載された記事を送られたことがきっかけでこの曲を聴いた朝妻が「必ずスタンダードになる」と確信し、フジパシフィック音楽出版の管理楽曲に加えられたという[8]
  • スイッチ (雑誌) - 創刊当初はフジパシフィック音楽出版の子会社・スイッチコーポレーション(現株式会社スイッチ)が発行、発行人を務めた。

脚注

外部リンク





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