最初の航海
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「バジル・リングローズ」の記事における「最初の航海」の解説
リングローズがなぜバッカニアの一味に加わったのかは不明だが、1679年3月から海賊行為についての記録をつけ始め、プエルト・ベリョを掠奪したのちにダリエン地峡を横断し、パナマの町を襲撃した。一味にはバーソロミュー・シャープ、ジョン・コクソン(英語版)、リチャード・ソーキンズ(英語版)、ジョン・クック (海賊)(英語版)、ライオネル・ウェーファー(英語版)、ウィリアム・ダンピアらがいた。語学に精通していたリングローズは一味の中で通訳として重宝され、尊重されていた。また、ダンピアは彼のことを「私の聡明な友人リングローズ氏」と記していることから、親しくしていたと思われる。 1681年4月17日、当時トリニティ号の船長の座にあったシャープに対して不信任の投票が行われた。一味は分裂し、ダンピア、クック、ウェーファーらはシャープに反旗を翻して船を去り、リングローズはシャープを支持して船に残った。およそ50人が離反したのち、一味はトリニティ号を改修していくつかの船を拿捕・掠奪した。エクアドルのプラタ島に寄港したさい、リングローズは舵手のジェームズ・チャッペルと決闘したが、どのような結果になったのかは不明である。一味はホーン岬を回航して翌年の1月にアンティグアに到着した。当地で一味は解散することになり、リングローズはロバート・ポーティーン船長のリスボン・マーチャント号に乗ってイギリスに帰国した。ダートマスに到着したのは3月26日のことであった。
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最初の航海
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1692年、バミューダ植民地総督のリッチャーはガンビア川沿岸のゴリーという土地にあるフランスの商館を占領するため、2隻の私掠船を用意し、それぞれテューとジョージ・デュー船長を指揮官に任命した。総督から船と委任状を受け取った2人は当地の王立アフリカ会社を支援するためバミューダを出港したが、途中で激しい嵐に遭い、デュー船長の船のマストが折れ、2隻は離れ離れになってしまった。デュー船長は修理のために港に引き返したが、僚船と別れたテューはこれを好機と考え、海賊行為を働くべく乗組員たちを甲板に集めて演説を始めた。雇われの仕事よりも海賊行為のほうが儲かると説くテューに感心した乗組員たちは「金の鎖を手に入れるにしろ、義足をつけることになるにしろ、船長に付いて行くぜ」と答えた。 テューは船を喜望峰へ向け、そこからバブ・エル・マンデブ海峡を通過して紅海に入った。そこで荷を満載してインドからアラビアに向かう途中の大型船に遭遇し、これを襲った。大型船には300人もの兵士が乗船していたが、兵たちは積荷を守ることよりも身を守ることに専念してしまった。テューは1人の死者を出すこともなく容易に襲撃を成功させ、金銀や宝石類、スパイス、火薬類などを船に積めるだけ積み込んだ。これらの戦利品の分け前は1人あたり3000ポンドにもなったという。さらに拿捕した大型船の乗組員から、ほかに5隻の船が続航しているということを聞き及び、テューはそれらの船も獲物にしようと提案した。しかし操舵手ほか乗組員の多くがこれに反対したため、マダガスカルに向かうことになる。 1694年4月、テューはニューポートに到着した。ニューヨーク植民地のベンジャミン・フレッチャー総督(英語版)は、テューやその家族と親しくなった。
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最初の航海
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1825年9月、ビーグルはウーリッジでドックに入り5913ポンドをかけて新たな任務のための修理と改装が行われた。砲は10門から6門に減らされ、操船性の向上のため後マストが追加された。そのため、ブリッグからバークになった。 1826年5月22日、ビーグルはプリングル・ストークス船長の指揮の下で最初の航海に出発した。この航海では、フリップ・パーカ・キングの指揮の下、ビーグルより大きな船アドヴェンチャー(380トン)と共にビーグルはパタゴニアとティエラ・デル・フエゴ諸島の水路調査を行った。 フエゴ諸島の荒涼とした海域でのより困難な調査に直面して、プリングル・ストークスは深いうつ状態に陥った。マゼラン海峡のポート・ファミンで彼は14日間部屋に閉じこもってしまった。そして、12日間の精神錯乱状態の後、1828年8月2日に自分自身を撃ち死亡した。パーカ・キングがビーグル号の副長W・G・スカイリングと共にストークスの後を引き継いだ。彼らはリオデジャネイロへ向けて出港し、そこで1928年12月15日にガンジスに座乗する南アメリカ方面の司令官ロバート・オットウェイ少将が彼の部下のロバート・フィッツロイ海尉を一時的にビーグル号の船長に指名した。 23歳の貴族、フィッツロイは有能な指揮官であり、また念入りな調査を行った。フエゴ島民の一団が船のボートを盗んだ時には、フィッツロイは彼らの家族を人質として捕らえた。結局彼は二人の男、少年と少女を一人ずつ捕らえ、その4人はイギリスへ連れて行かれた。1830年10月14日、ビーグルはポーツマスに帰還した。
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