日本棋院設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 05:51 UTC 版)
1922年(大正11年)の裨聖会設立の声明に名を連ねたが、参加せず。しかし方円社は雁金準一、瀬越憲作、鈴木為次郎の裨聖会参加で主力棋士を欠いた上に、社長広瀬平治郎も前年から病床にあり、1923年(大正12年)1月、岩佐は方円社副社長格として加藤信とともに、本因坊秀哉ら坊門と合同して中央棋院を設立。しかし資金面で対立し、4月に方円社棋士は分裂して方円社に戻る。同年9月の関東大震災で、当時丸ビルにあった方円社を、四谷の岩佐宅に移した。 1924年(大正13年)1月、広瀬に代わって方円社6代目社長に就任。この頃、秀哉を中心とした中央棋院、裨聖会、方円社の三派ともに経営は苦しく、その上での震災により再度碁会合同の機運が強まり、秀哉、裨聖会雁金、大倉喜七郎らとともに碁会大合同を策し、5月には方円社を解散、7月に日本棋院設立を遂げる。 日本棋院では審査員役に就き、また第1回の大手合では秀哉と対局し、二子で中押勝。1926年(大正15年)、鈴木為次郎、瀬越憲作とともに、推挙されて七段昇段。大手合が1927年(昭和2年)からの春秋二期制となると、秀哉、中川亀三郎八段らとともに審判役となる。 1938年(昭和13年)没。1942年(昭和17年)追贈八段。門下に藤田豊次郎、光原伊太郎、藤村芳勝、福田義虎など。本因坊道策に傾倒し、道策の棋譜はすべて並べられるほどだったという。
※この「日本棋院設立」の解説は、「岩佐銈」の解説の一部です。
「日本棋院設立」を含む「岩佐銈」の記事については、「岩佐銈」の概要を参照ください。
- 日本棋院設立のページへのリンク